【第16回】池田重晴氏
(自動車部品組み立て工・AISIN AW生産技術本部ものづくりセンターチーフアドバイザー)
「人間は誰も、断崖絶壁に立たされれば知恵や技をひねり出すものですよ」
第16回は、アイシン・エィ・ダブリュ(AW)生産技術本部ものづくりセンター・チーフアドバイザーの池田重晴(いけだ・しげはる)さんです。池田さんは、愛知県出身の1946年3月生まれの65歳で、長年、自動車部品の組み立て分野で活躍されてきました。61年3月愛知工業(現アイシン精機)に一般技能職で入社。69年アイシン・ワーナー設立に伴い転籍、79年2月製造の管理監督者、85年1月全社改善係初代リーダー、88年現アイシン・エィ・ダブリュに社名変更、90年1月工機部課長、2000年1月同次長、03年9月ものづくりセンター初代センター長などを経て、11年4月から現職。この間、社内では2003年AWで初のテクニカルエキスパート(TE)、06年同唯一のスーぺリアテクニカルエキスパート(STE)の称号を授与される一方、社外からは05年8月経産、文科など4省連携の第1回ものづくり日本大賞で無動力搬送台車「ドリームキャリー」が特別賞、同11月中部科学技術センター顕彰で特別賞をそれぞれ受賞し、08年11月「現代の名工」に認定され、10年11月には黄綬褒章に輝くなど、ものづくりの世界では著名な方です。
■今、最も"旬"な「現代の名工」の一人とも
約80キロの重さのオートマチックトランスミッション(A/T=自動変速機)を荷台に載せると、台車は滑るように動き出し、次工程前まで進むと止まる。ATが荷台から下されると、台車は引き返し、元の位置に戻る――。2005年8月の「第1回ものづくり日本大賞」で特別賞を受賞した無動力搬送台車「ドリームキャリー」だ。江戸時代の「茶運び人形」を参考に考案した電気など動力源を一切、必要としない自動搬送装置だ。その後、ドリームキャリーは吊り下げ式、スライド式、レバー起動式などと機種を拡大し、11年6月には28台が国内の各工場に投入され、二酸化炭素(CO2)の排出抑制をはじめ、電気代や設備費の大幅削減などで活躍中だ。考案したのは平成の"からくり師"ともいわれる池田重晴さんである。「モノづくり(ものづくり)の原点はからくりにあり」。昨年春の東日本大震災を機に、電気などエネルギー事情が一変、社会全体で節電対策が叫ばれている中、最も"旬"な「現代の名工」の一人かもしれない。
「確か、4歳の頃だったかな」というから、池田さんとからくり人形との"出会い"は60年以上も前に遡る。それがその後の人生に影響を与え続けるのだから、運命的な出会いともいえる。戦後の混乱が色濃く残る1950年初夏、高峰秀子の「銀座カンカン娘」や藤山一郎の「長崎の鐘」などがラジオから流れていた時代だ。「近くの神社の祭りです。山車の上で自在にからくり人形が動き回る様(さま)に魅了され、凄く感動したのを覚えています。いつか自分でも(からくり人形を)作ってみたい」。今も蘇ってくる幼い頃の懐かしい思い出の一コマだ。
■モノ創り哲学に定めたのは、池田流「無動力・ナガラ思想」
それから11年後、中学校を卒業して自宅から自転車で約10分の距離の愛知工業(現アイシン精機)に一般技能職で就職した。入社後、豊田佐吉翁の最高傑作といわれる「G型自動織機」の存在を知った。同機を通して1つのモーターで20台の織機を動かしながら、糸交換はもちろん、糸切れ対応まで品質保証の全ての機構をからくりで実現しているのを学び、改めて、からくりの技術的な凄さに驚きを覚えたという。
入社から42年目の2003年9月、生産要素技術に特化した研究開発機関「ものづくりセンター」が設立され、初代のセンター長に。センターの生産革新活動のシンボルに、豊田佐吉翁の「研究と創造」と前社長の「夢と感動」を掲げた。その上で、モノ創り(ものづくり)哲学に電気も油も使わない器械創りの「無動力思想」と、ワンアクチュエータで最低限3動作以上の働きをさせる器械創りの「ナガラ思想」を組み合わせた池田流「無動力・ナガラ思想」として体系化した。その具体化の第1弾として、これまでの電動AGV(無人搬送台車)を無動力搬送台車に切りえることはできないか、という構想を打ち上げた。そこで着目したのが、子供の頃から興味を持ち続けていた江戸時代のからくり人形だ。それも、最適なのは「茶運び人形」(写真)ではないか、と狙いを定めたのだ。
■まず、「茶運び人形」の復元から
「茶運び人形は、あらかじめ巻き上げられたゼンマイ(背美鯨のヒゲ)を動力に、手にする茶たくに茶碗を載せると自動的に発進し、客が目の前にきた人形の茶碗を取ると、その場で止まり、茶碗を戻すと向きを反転させて元の場所に戻っていくという仕組みです」。それを無動力搬送台車に応用できないか、と思案したのだ。つまり、台車に載せる製品の重さ、それに反発するバネの力を連動させて稼働する無動力搬送台車の考案である。それには、まず「茶運び人形」の復元が必要だと判断。土佐藩士の細川半蔵が1798年に著した日本最古の機械工学書「機巧図彙」(きこうずい)を参考にすることを決めた。そして、そのコピーを入手して解読作業から始めた。
とはいっても、文字や図面などの描き方に現代とはかなりの違いがあって、「機巧図彙」の解読にはかなり手間取ったという。このため、からくり人形の技能などを先祖代々から伝承している大阪府や愛知県に在住する本物の木偶師(でくし)宅を何度も訪ね、助言や知恵を受けながら解読作業を進めた。「木偶師といわれる方々の自宅まで何度も足を運びました。やはり、『機巧図彙』の解読は容易なものではありませんでしたね」。懐かしそうに振り返る。だから、「茶運び人形」の復元には1年半ものの時間がかかったという。そして、そのからくりが「動力源のゼンマイ一つであらゆる動きを可能にする」という原理から成り立っていることを突き止め、「正直に言って、そのモノ創りの素晴らしさや知的レベルの高さに驚きました。しかも、それが現在の機械の基をなしているわけですからね」。先人の技術的なレベルの高さに舌を巻いた。まさに、「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」(広辞苑)の"温故知新"にも通じる世界だ。
■最初で最大の課題はゼンマイをいかに巻くか
それをどう「無動力搬送台車」に応用するか。最初で最大の課題は、ゼンマイをいかに巻くかに絞られたという。試行錯誤の末、製品の重さを利用し、荷台とそれに連結するラックを押し下げながら、ピニオンギヤを介して直線運動を回転運動に変えることで走行させる。同時に、ゼンマイを巻く(スプリングを縮める)、製品を下ろすと、縮められたスプリングの伸びる力を利用して荷台とラックを押し上げることで、ピニオンギヤを反対方向に回転させ、台車は元の位置まで戻る、という基本的な機構を固めた。その上で、号口ライン導入を念頭に試作機を前に、工場関係者らと検討会を何度も重ねた。設計検証を経てゴ―サインが出たのは、2004年5月。ついに、ドリームキャリー(写真)の号口ライン導入が決まったのだ。
■入社7年目に布団の下に書き置きを残して家出したことも…
ものづくりの世界で数々の栄誉を手にしている池田さん。さぞや、順風満帆のものづくり人生を歩んだのかと思いきや、それがどうして、どうして……。ものづくり人生が挫けかかった時も。「実は、入社7年目の時に会社を辞めようと、家出をこっそり企てたことがあります」。1960年代後半だ。折から米国のベンチャーズを中心に日本の若者の間でエレキブームが爆発的な人気を集めた頃だ。仕事の傍ら、池田さんも友人らとエレキバンドを結成、地元のビヤガーデンなどのステージに立っていた。
「バンドでは、ドラムを叩いていました」。ボサノバ・バンドのピンキ―とキラーズに愛知県出身の今陽子が加わってデビュ―曲「恋の季節」で一躍、人気者になった時期とも重なる。密かに「上京しよう」と心に決めた。それが高じて布団の下に母親宛の書き置きをしたためて家出を決行したという。「プロのドラマーになるんだ!」。当時の国鉄の最寄り駅に急いだ。最寄り駅に着いたものの、東京行きの列車が到着するまでにはかなりの待ち時間が必要だった。当時は現在と違って列車の運転間隔がかなり開いていた。待ち時間をどう潰すか、結局、選んだのは駅前の銭湯だった。
「それが運の尽きでした」。そこへ、「家出を知った」母親と上司が入ってきて、あえなく発見されたという。「もちろん、二人に説得されました。おふくろは涙をぼろぼろ流しながら説得するわけです。今でも、あの時のおふくろの顔は忘れることはできませんね」。"若気の至り"といってしまえばそれまでだが、池田さんの青春時代のほろ苦い1ページだ。ただ、それが自らの人生を改めて、見詰め直すきっかけにもなったのも事実だ。
■自費で職業訓練所に通い技能磨きに取り組む
再び、ものづくりの世界に。今度は、休日には自費で愛知県岡崎市にある職業訓練所に通い、旋盤や溶接などの資格取得も兼ねて技能磨きに励んだ。やがて、自身が担当するラインの改良に必要な部品を作れるまでに技能を高めた。そんなひたむきな姿勢が評価され、1979年2月に製造の管理職に昇進。「でも、昇進は同期生に比べて5年くらい遅れました」。が、それにもめげず、上司に「中古でもいいからボール盤や旋盤などを揃えて欲しい」と工作機械の購入を直談判。熱意にほだされてか、上司も快諾。以来、部下らとラインに必要な部品づくりに没頭したのはいうまでもない。
「自分の城は自分で守る」。80年代に入り、トヨタ系部品メーカーとして「トヨタ式生産方式」が全社的に導入され、管理職として担当するラインに万全を期して臨んだ。故障や不具合などが発生したら、ただちに必要な部品を作って対応。そんな努力の甲斐もあって、84年には「モデルライン」にも選ばれた。仕事が楽しかったのか、「居酒屋で友人らと飲食しても、仕事のことで何か思いつくと伝票の裏にボールペンで走り書きしては、同僚らに『これはどう?』と電話していましたね」。
■「全国からくり工夫展」開催の引き金にも
85年1月には、会社の新組織として発足した「全社改善係」の初代リーダーに任命された。多品種少量生産に対応した自動車部品のラインづくりに全力を注いだ。これまでに培ってきた技能の蓄積をそれに投入した。この改善係時代の「からくり工法」を駆使した池田さんのモノ創りに日本プラントメンテナンス協会(JIPM)が着目、97年JIPM主催の第1回「全国からくり工夫展」開催の引き金にもなったという後日談まである。
「人間は断崖絶壁に追い込まれれば、知恵や技を出さざるを得ません。よくいうじゃないですか、火事場の馬鹿力というやつですよ。時にはそういう風に自分を追い込むのも人生には必要ですね」。含蓄のある示唆に富んだ池田流の人生訓か。また、昨年夏には電力不足問題で自動車産業も「土日稼働の木金休業」の節電対策に取り組んだ。そんなこともあって、池田流「無動力・ナガラ思想」に熱い視線が注がれているという。「このところ、講演依頼が増えてきましてね」。最近は、業務の合間を縫って月1回のペースで講演をこなす忙しさも。
アルコールをたしなむ左党派の一人らしい。時には、同僚らと気分転換に"からくり談義"に花を咲かせることもあろうか。湯豆腐が美味しい季節でもある。池田さんにはどことなく、俳人久保田万太郎の「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」の句の世界が似合いそうである…。
