【第21回】田中幸孝氏
(プレス加工・東海理化生産技術センター主担当員)
「ものづくりは、問題解決作業の連続だということです」
第21回は再び、「現代の名工」シリーズに戻り、東海理化生産技術センター金型工機部技術室主担当員の田中幸孝(たなか・ゆきたか)さんです。田中さんは熊本県出身の1958年5月生まれの54歳で、金型製作などプレス加工分野の第一人者です。77年4月同社に入社、1年間の社外教育を受講、78年4月金型製造部門に配属され、以来、ほぼ一貫してプレス金型製造などに取り組み、2013年1月から現職です。この間、86年2月職業指導員免許(機械科)を取得したのをはじめ、89年3月同(板金科)取得、2000年4月インサート成形を主とするプレスラインの特許を公開、08年3月金属プレス加工科特級技能士、10年4月2級技能士コース金属プレス加工科講師を担当、11年7月技能検定「金属プレス加工作業」検定員、同年11月「愛知県優秀技能者(愛知の名工)」など数々の栄誉を受賞され、12年11月には「現代の名工」にも認定されています。また、田中さんは同社にとって3人目の「現代の名工」です。
■「まだまだ現役です」"現役続投"宣言も

金型製作などプレス加工分野一筋に今年で36年。2012年11月には、特許を公開した「インサート成形を主とするプレスライン」など、同分野に積み重ねた一連の功績が認められ、同年度の「現代の名工」に輝いた。
「県から連絡を頂いた時は、まさか、私が、とびっくりしてしまって……」。思わぬ朗報を前に、自身の慌てぶりを正直に吐露する一面も。それから5カ月余り。喜びも新たに「まだまだ現役ですよ」と、改めて"現役"を宣言。プレス加工に、後進の育成にと、ものづくり人生に一段と磨きがかかりそうだ。
「受話器置く耳まだ燃えて新社員」(小島昌勝)。新入社員の初々しい仕草や表情などが職場を彩るシーズンでもある。季節は、出会いと別れが"真っ盛り"な春。で、次世代のものづくりを担う後輩らにエールを送るのを忘れない。「とくに、若い人たちには『ものづくりは問題解決作業の連続だということ』を伝えたいですね」。長年の知見を含めた経験などから培ってきた自身のものづくり論ともいえる。それでいて、どんなことにも通用しそうな"人生訓"にも聞える。
自作の部品を手にちょっと誇らしげに「プレス金型を造り、プレス機に載せて帯状の金属板を加工して部品を作っていきます。主に、自動車用のスイッチ類です。試行錯誤の連続でしたが、技能や技術がステップアップしていくに従って、仕事がどんどんと面白くなってきます。それがやりがいとか、喜びとか、に変わっていくから不思議です。しかも、自然にそんな気持ちが湧いてきて……」。自身が取り組んできたプレス加工分野をさりげなく解説する。
その上で、的確な対策を立てるには、「加工途中の製品、でき上がった製品をじっくり観察すること。そのまま、削って、切って、曲げて、拡大して観る。まだまだできうる限りの方法で観察することで見えてくるものがあります」。やはり、ものづくりの洞察力を磨くことの必要性も説く。
■本領発揮の「複合生産ライン」の実現も

中でも、プレス加工に加え、樹脂成形にも精通した第一人者としての本領を発揮したのが、2000年4月に特許を公開した「インサート成形を主とするプレスライン」。大まかにいえば、プレス加工と樹脂成形とを1本のラインとした「複合生産ライン」の実現で、量産化やコスト削減を実現するなど、生産性向上に大きく貢献した画期的なプレスラインの1つだ。
「2つのラインをなんとか1本のラインにならないかな」。こんな依頼が持ち込まれたたのは、特許公開の4年ほど前だったという。当時は、工程数と同じ台数のプレス機をラインに並べて一連の送り装置で連結した自動化プレスラインで連続生産していた。
プラスラインは、帯状の金属板のコイル材Sに曲げ加工を施す2次プレス工程Aと、コイル材Sに樹脂成形をアウトサ―ト成形する成形プレス工程B、さらにコイル材に成形された樹脂成形品を切り離す分断プレス工程C、の3工程からなっていた。
そこで、ラインのステージに各工程を載せながら「なんとかコンパクトにラインはできないか」と、1本の生産ライン化に向けて思案を繰り返したという。
■円滑送給に"別駆動機構"を新たに導入へ
とはいえ、そこでは分断プレス機と前工程の成形プレス機とのサイクルタイムが異なるという課題を抱えていた。つまり、コイル材Sを成形プレス機のそれに合わせて分断プレス機に送ると、コイル材Sが分断プレス機に干渉され、円滑な送給ができないという致命的な問題が控えていたからだ。それをどう克服するか、がプレス加工と樹脂成形とを1本のラインとする「複合生産ライン」実現の成否のカギを握っていた。通常、「金型はプレス機の中で上下に動くだけです。それを下から眺めていたら、そこに新たな別駆動機構を入れたらどうか、というひらめきが浮かんだのです」。で、「ひょっとしたら、それが利用できるのでは」。次第にひらめきへの期待が膨らんだ。具体的には①コイル材を保持するための手段と、工程数と同じ台数のプレス機とを備える②保持されているコイル材が送り装置によって工程順に各プレス機の下金型、上金型との間に送給配置され、同コイル材に順次、所定の加工が施される、などとするひらめきだ。
■プレス加工と樹脂成形とを1本のプレスラインに
新たなプレスラインには、(1)コイル材に樹脂成型品を成形するための成形プレス機と、成形プレス機で成形された樹脂成型品をコイル材から分断する分断プレス機とを備える。成形プレス機、分断プレス機を共通ベース上に配設する(2)成形プレス工程の1サイクルタイム内に、分断プレス工程の1サイクルと分断プレス工程の1サイクルで分断された樹脂成型品の取り出しが行なわれるようにする(3)分断プレス機の下金型には、樹脂成型品を載置するためのダイスを上下移動可能に設けるとともに、同ダイスを上下方向に一定量移動させるための昇降手段を設ける(4)分断プレス機の上金型と下金型には、ダイスに加わる分断荷重を受圧する手段を設ける(5)分断プレス機の下金型を、ベース上面を移動可能な移動式ボルスタ(プレス機械の金型を取り付ける定盤部)上に配設する、などの策を施した。もちろん、どんぴしゃり狙い通りにプレス加工と樹脂成形とを1本のラインとした「複合生産ライン」が実現した。
■子供の頃からの"クルマ好き"が高じて

そんな田中幸孝さんをものづくりの世界へと導いたのは、子供の頃からの"クルマ好き"が高じてだったというから、何事も「初心忘るべからず」である。出身は熊本県天草市。実家は農業を営んでいたという。が、どういうわけか、「子供頃から関心があったのはもっぱら、クルマの方でしたね」。やがて、子供ながらに「将来はクルマに関係する仕事に就きたい、と思うようになっていました」。どうやら、生来からの"ものづくり大好き人間"の1人かもしれない。
そして、見逃せないのは、戦後の自動車産業の発展と自身の成長とが実に多くのところで重なっていることだ。
通産省(現経産省)の2-4人乗りで、最高時速100キロ以上、58年秋には生産開始などとする「国民車構想」が発表されたのは、1955年7月。「もはや戦後ではない」の有名なフレーズを明記した「経済白書」が世に出たのは翌56年7月。50年代の自動車産業は成長への基盤づくりに腐心した時代といわれる。60年代の半ばには高度経済成長に支えられ、順調に国内販売が伸び、クルマ社会が到来した。69年に乗用車が商用車を上回り、70年には国内販売も400万台を超え、国内保有台数が2000万台に迫る勢いを見せる。
70年代には、これに輸出が加わった。米国を中心とした輸出が加速した。70年100万台、73年200万台、76年300万台、77年400万台と、年間平均50万台増ペースで輸出が拡大。自動車産業は日本の基幹産業へと一気に踊り出た。しかも、73年10月に日本経済を襲った第1次石油危機をも克服し、成長軌道を走り続けた。76年春、58年5月生まれの田中さんも、人生の進路を決める高校3年生を迎えていた。
■迷わず"一直線"にものづくりの世界へ

しかし、時代は2度の石油危機に円高が加わり、さしもの日本経済も"構造不況"の4文字の前に沈んでいた。そんな中、一人気を吐いていたのが、ほかならぬ自動車産業だった。「学校に会社(東海理化)の入社案内が届いていましてね。で、クルマ関係の会社だったから、すぐに入社試験を受けなければと、心に決めました」。が、会社は本州のほぼ真ん中にある愛知県。熊本県からはかなりの距離だ。が、一切の迷いはなかったという。「兄が東京の会社に就職していましたから、愛知県の会社だからといって、不安なんかなかったですね」。長年、心に温めていたクルマ関係の仕事に就けるという喜びの方が、何よりも勝っていた。人生の進路をぴたり愛知県に向けることにいささかの不安もなかった。一点の曇りもない"19の春"の決断だった。77年4月、東海理化に入社、ものづくり人生のスタートが切られた。
■今も思い出す恩師の「安部先生」
当時、入社1年目は新入社員研修の一環としてデンソーでの技能教育を1年間受けた。
主に、座学や工作機械操作などを通して実践的なものづくりのノウハウを身につけた。そこで、ものづくり人生を歩む上であこがれにも似た刺激を受ける人物と巡り合うから、何とも"人生の妙"を覚える。副担任のA先生である。今も、印象深く思い出す先生だ。「先生はやすりで、鉄の角材の一面を測定器なしで平行度0.02以下に削って見せてくれました。端から見ていて、ほれぼれするような見事なスピードと正確さでした。先生のように削るにはどうすれば良いか、大いに刺激されましたね」。
ものづくり人生のスタート早々に出会ったA先生。ものづくりの世界では著名な方である。現在も、A先生は技能者教育の第1線で実績を重ねている「現代の名工」の1人でもある。数多くの「技能オリンピック」選手を育成したり、ものづくりの第1線で活躍する技能者らを多数輩出したりして、技能者教育の世界では屈指の指導者として知られる。田中さんは、その教え子の1人だ。2008年秋には同年度の「現代の名工」にも認定されるなど、数々の栄誉も手にしている。「いつも教える時には、その3倍は勉強して準備しています」「認められる喜びがやりがいにつながります」――などが持論だ。A先生とは、本シリーズ「ものづくり紀行」の第11回目に登場された「デンソー工業技術短期大学校校長の安部良夫さん」その人である。
その1年後の78年4月には金型製造部門に配属され、以来、金型製作などプレス加工分野一筋にものづくり人生を歩んでいく。まず、担当したのはボール盤。ボール盤はドリル(きり)を用いて穴を開ける工作機械の1つ(自動車用語中辞典から)。1年間はただひたすらボール盤を操作したという。「ボール盤を操作すると、作業衣が機械油などで汚れて大変でした。でも、振り返ってみると、それも良い経験でしたね」。1年後にはボール盤担当から設計など金型製作へと担当が代わった。
■設計から不具合対策まで教わった上司の藤田さん
この職場でも尊敬する上司と巡り合うことに。金型組み立て業務を担当した頃の上司、藤田啓一さんである。金型設計から不具合対策まで数々の技術や技能などを教わったという。ちなみに、藤田さんは1994年度の「現代の名工」に認定されている方である。しかも、東海理化では初めての「現代の名工」である。「藤田さんには仕事を含めて様々なことで叱咤激励されましたね」。人生の恩人の1人だという。「昨年秋、私が2012年度の『現代の名工』に認定されたのをどこで知ったのかな。新聞の記事だったのかな。藤田さんから祝電が届いていましてね。凄く嬉しかったですよ」。かつての上司と部下の人間的な"ほのぼのとした関係"を物語る心温まるエピソードの1つでもあろう。
座右の銘は「とくにありません。強いて上げるなら、会社の掲げる『仕事の取り組み方・やり方の5訓』になりますか。その中でも、『自分を鍛える、人を育てる、強いチームを作る』が好きですね。そして、人に教える時には今も、教わる人以上に勉強して臨むことを実践しています」。
「夢のはじめも夢のをはりも花吹雪」(渡辺恭子)。今も、現役バリバリだという。で、どんなものづくり人生を歩んでいくか、これからにも新たな期待が膨らんでいる。