JAPIA ものづくり紀行

【第24回】高橋信雄氏(研ま盤工・アルプス電気)

座右の銘は「今日のチャンピオンは明日のチャンピオンではない」です

pht_no22_1.jpg 第24回は、アルプス電気北原工場ものづくり研修所係長の高橋信雄(たかはし・のぶお)さんです。高橋さんは宮城県出身の1954年4月生まれの59歳で、研ま盤工の分野では同社の第一人者です。74年3月同社古川工場工具課(金型製作)研削加工員として入社、98年5月精機センター(当時)北原工場精機部製造一課係長、2007年4月から現職の北原工場技能研修所係長を歴任しています。この間、1978年技能検定「平面研削盤作業二級」、88年同「同一級」、2003年3月同「機械加工特級」などを取得する一方、00年中央職業能力開発協会認定「機械加工高度熟練技能者」、2008年宮城県認定「宮城卓越技能者」、13年中央技能振興センター長や厚労省認定「ものづくりマイスター」など各種栄誉を受賞され、同年11月には同年度の「現代の名工」に認定されています。

■「ものづくりは常に、挑戦です」

パソコンや携帯電話に使用されるメモリカードなどの差し込み口「コネクター」、さらには各種電気機器やメカニズムの状態を検知するための「検出スイッチ」。いずれも、微細精密金型から量産される"豆粒大"くらいの大きさの電子部品だ。その金型づくりに取り組んで35年。直角加工精度1マイクロメートルの精度加工が可能な技能の持ち主で、畏敬の念を込めて「異形状加工の鬼」と呼ばれる。この間、測定器を新たに考案し、求められる加工精度を実現したり、パーツ加工に独自の工夫を凝らし、不良品に結びつく誤差を解消させるなど、微細精密金型分野に数々の新機軸を打ち立てた。2013年11月には、そんな一連の実積が高く評価され、アルプス電気では初めての「現代の名工」に輝いた。今も、趣味で始めたクレー射撃の先生から学んだ教えの1つ「今日のチャンピオンは明日のチャンピオンではない」を座右の銘に掲げ、「ものづくりは常に、挑戦です」と、後進の育成に、自らの技能磨きにと全力投球の毎日だ。

まずは、こんなエピソードから。入社17年目の1991年から3年間、それまでの社内向け金型製作から一転、他社から金型を受注し、それを製作して納品する「外販金型のチームリーダー(係長)」を担当したときだった。全国各地を飛び回って金型を受注し、承認を得ていた。「実際の外の世界を知る上で、貴重な経験でした。何しろ、売り物としてお客様に納める以上、精度や品質に妥協は許されませんからね」。ひょっとすると、"他流試合"を経験させ、自社のレベルを引き上げる狙いもあったのかもしれない。

■何度も退社を考えたが…

そんな中、関西地方のある会社からプレス金型を受注した。納品にあたって「量産認定」を受けるには、その会社の設備を使用して連続4時間加工しても仕様スペックに入ることが条件だった。しかし、曲げ寸法にバラつきが出て、公差外アウトとなるため、曲げ調整機能などを追加するなど、何度も改良を施して持ち込んだ。が、結果はことごとくアウトの連続。つまり、量産認定が得られなかった。

当然、受注先の会社からは納期に関わるために催促や苦情などが相次いだ。そこで、近くのホテルに1週間も泊まり込み、原因究明に当たった。が、一向に原因が分からず、途方に暮れた。時間が無為に流れ、焦りが募った。「この時ばかりはこのまま仕事を放り出して会社に何度も『退社します』と電話しようかと追い込まれましたね。退社の文字が何度もちらつきましたよ」。退職を考えるまで追い込まれていた。

「アルプスの高橋さんは宮城県の古川の出身だって、僕は石巻ですよ」。受注先の営業課長Eさんから思わぬ声がかかった。「話は聞きました。これはアルプスさんだけの問題ではありません。後はうちの方でなんとかするから大丈夫ですよ」と続いた。"助け舟"を出してくれた上に量産認定も。まさに、"地獄に仏"のようなEさんだった。「今でも、感謝、感謝ですよ。Eさんがいなかったら、私は会社を辞めていました」。その後、原因は受注先でのメッキ厚のバラつきだったことが判明したという。

■早くも、中学時代から人生設計を描く
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もともと、子どもの頃からものをつくることが好きな気質だったという。そのせいか、小学生の高学年ともなると、自転車をバラして主要部品ごと入れ替えたり、鮎獲り用の投網を作ったりして、ものづくりを楽しんでいた。「とくに、投網は網地やおもり(チェーン)を買ってきて、自分で作っていました。そのうちに、鮎の大きさに合わせて投網を作って楽しんでいました」。そのうちに「人が持っていない物を作り上げることに喜びを感じるようになっていました」。

中学生時代には早くも、自身の人生設計を描いていた。「高校は定時制に入り、昼は自動車修理の見習いアルバイトをして、夜は高校で勉強するなんて考えていましたね。そして、卒業後には正式に『資格』を取得して、自動車修理のエンジニアとして働こうかと人生設計を描いていました」。1970年3月、中学校を卒業。同4月には人生設計通りに地元の定時制工業高校機械科に進学、目標の自動車修理のエンジニアに向かって第1歩を踏み出したかに思えた。が、入学早々、想定外のことが持ち上がった。早くも、人生設計の軌道修正を迫られた。ここが"人生の妙"というのかもしれない。

■現実の厳しさに戸惑ったことも
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「確か、入学直後でしたかね、先生から『アルプス電気の古川工場で準社員(当時:現在のアルバイト)を募集しています。この中に誰か、この準社員試験を受けてみようという者はいるか』と呼びかけがありましてね」。聞けば、仕事は午後3時までで、定時制高校に通学する生徒には好条件の勤務内容だ。「それなら、自動車修理の見習いアルバイトは止めて、アルプス電気の準社員になるか」と準社員へと傾き、入社試験に臨んだ。合格したのは、自身を含めて工業高校の同期生3人。ちなみに、正社員としての入社は74年3月26日だが、実際には70年4月から準社員として入社していた経歴の持ち主でもある。

配属先は、3人とも古川工場工具課の研削加工要員だ。昼間はアルプス電気の準社員、夜は高校生の"二足のわらじ"人生が始まった。が、実際のものづくり現場は、想像以上に厳しかった。例えば、先輩に「金型とは何か?」と尋ねれば、返ってくるのは「鯛(たい)焼き機だと思えばいい」の答えくらいだ。当時のものづくり現場はまだ、「先輩のやり方を見て、技や方法を盗め」の時代だった。入社1日目はノギスや外側マイクロメータの使い方、測り方などの指導を受けた。2日目は指導員がつき、成形研削盤に触り、砥石を回転させないで操作方法などを学んだ。「それからの1週間は毎日、手に豆ができるは、立ち仕事のつらいことつらいこと、苦しかったですね。しかも、トイレに行くにも休み時間にならないとダメです」。

そして、金型づくりのイロハへと進んだ。というよりも、進まされたのか。「ミクロンの世界とは」「加工公差とは」――。「え?え?」

と疑問符がつくばかりで、皆目、見当もつかなかった。さらに、砥石の選択をはじめ、ドレッサー、Rジグなど、見るもの聞くもの全てが初めてだ。ましてや、ST(標準時間)達成率、不良率(オシャカ)などに追われるなど、全てが苦痛だったという。「しかも、手とり、足とり、教えてくれる先輩なんか、全くいませんでしたからね」。

■誰もが嫌がる仕事に果敢に挑戦

幸い、同期の2人とは同じ職場だ。入社以来、互いに励まし合ってきた仲だった。「準社員の4年間が終わったら、今後、どうするか、3人で決めようとも約束していました」。

が、入社2年目に1人が脱落、もう1人は正社員として入社後、4年目で会社を去った。結局、会社に残ったのは自身の1人だけとなった。

それがものをつくることが好きな生来から気質に火をつけたのか、ものづくりにのめり込んでいくことに拍車をかけた。「誰もが苦手で嫌がる形状加工を完成させれば、上司からは誉められ、周りの先輩や同僚からも認められます。そして、『異形状加工の鬼』なんてあだ名までいただくようになり、どんどん難易度の高いパーツ加工に取り組んでいくようになっていきましたね」。そこには誰にも負けない自信があって、「異形状加工なら任せろ」の自負もうかがえる。

金型は"技能のかたまり"といわれる。中でも、微細精密金型づくりは軽薄短小時代を象徴する金型の1つだ。自ずと、型パーツの入れ子は小さくならざるを得ない。そのためには、各機械加工の基準となる6面体加工で、どのように加工して直角精度を出すか、またその精度を数字的にどう判定するかがポイントとなる。複数個取りの金型では、直角精度が出ないと累積誤差が生じ、不良品になってしまうからだ。そこで、それを克服するためには100回測定しても同じ結果が出る、高精度な測定器が必要だった。既存の機器では、測定する度に結果が違っていて、どこをどのように修正すれば良いか分からなくなってしまう。測定精度に限界があったのだ。そこで、非接触センサーを装着し、当時世の中にない10万分の1ミリの精度を持つ測定器を自ら考案し、工具技術メンバーの力を借りて開発。正しい測定データをもとにして、加工手順や加工方法を試行錯誤して行けば良いとした。

■研削加工は心で削る
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また、成形研削加工の中で、最も難易度の高いハートカムと呼ばれる部分のパーツ加工にも独自の工夫を凝らし、不良品に繋がる誤差を解消した。これまでは成形研削から複数の工程を経て金型を完成させてきた。しかし、これではどうしても工程ごとの加工に終始しがちで、結合部が合わず、きつかったり、隙間が出たり、なかなか完成度の高いものができなかったという。

そこで、改善策として複数のパーツを1人で加工することとした。これによって、これまで各工程ごとにわずかに生じていた誤差を調整し、担当作業者が加工保証をすることで、責任を持って次工程に進むこととなった。その上で、1セットを治具に組み込んで一部を放電加工とするなどによって、チャタリング不良が解消され、量産化へとこぎつけた。また、後進の育成を目的に作業手順書も作成した。「荒取りをどれだけ正確に微細に行うかで勝負が決まります。加工する際の熱によるパーツのソリも問題になりましたが、研削火花が見えたら不良と思えです」。

研削加工は砥石ではなく、心で削るものと自分に言い聞かせているという。自身の研削加工の極意か。「一般的に研削加工した面を見れば、誰が加工したか分かるくらい個性や気性が現れます。私たちが作っている金型は軽研削(微細加工)が中心ですから、心を集中して想いを込めてパーツ加工することに専念しています。きれいな言葉で言えば、感性を研ぎ澄まして加工することです」。同社が掲げるものづくりのコーポレートメッセージ「美しい電子部品を究めます」とも通じそうだ。

■「俺が一番になるぞ」の気概も

6年前から全力を傾注している後進の育成。「技能の向上にはこだわりと思いが人一倍あれば、知恵やアイデアも生まれます。そして体験し、体感し、体得して技能となります。試行錯誤を繰り返しながら、自分が納得するまで極めることが大事です。これができれば、自然と体得できます。何事も目標を持ち、こだわり、思いを持つことが大切ですね」。その上で、「例えば、この仕事は『俺が一番になるぞ』という思いです」。そんな積み重ねの中から、今回の「現代の名工」という栄誉も。

「窓の火やわが家うれしき夜の雪」(永井荷風)。この冬には、こんな光景が見られているかもしれない。

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『ものづくり紀行』口上

自動車部品産業は「ものを作る人々」によって成り立っています。国が認定した「現代の名工」をはじめ、技能オリンピックのメダリストも多数おられます。
そういう方々を訪ねて自動車部品という領域で「ものを作る人々」が持つ思いや、部品企業ならではの楽しさを知っていただく試みとして、不定期連載の形でインタビューをお届けします。
さすがに「京浜間」の物作る人々を活写したエッセイ集などを多数上梓しておられる小関智弘さんのようには参りませんが、なにとぞご一読のほど願い上げます。

 

INDEX

【31】桂山光弘氏 (アイシンAW)

【30】太田雅也氏 (東海理化)

【29】佐藤輝夫氏(アスモ)

【28】匠道場「入江塾」(京浜精密)

【27】沖光和義氏(小島プレス工業)

【26】横堀吉晴氏(ミツバ)

【25】小室和春氏(日立AS)

【24】高橋信雄氏(アルプス電気)

【23】高橋伸尚氏(市光工業)

【22】小岡芳美氏(トヨタ紡織)

【21】田中幸孝氏(東海理化)

【20】ブレーキ博物館

【19】ジヤトコヘリテージコーナー

【18】稲吉喜一郎氏(ジェイテクト)

【17】倭将人氏(小島プレス工業)

【16】池田重晴氏(AISIN AW)

【15】日ピスものづくり学校

【14】杉山良晴氏(日立AS)

【13】朝比輝男氏(ジェイテクト)

【12】三輪修氏(デンソー)

【11】安部良夫氏(デンソー)

【10】水野幸夫氏(豊田自動織機)

【09】中村誠次氏(豊田自動織機)

【08】秋山康夫氏(GKN)

【07】緒方栄一氏(プレス工業)

【06】佐藤賢修氏(デンソー)

【05】桂功氏(デンソー)

【04】杉浦悦夫氏(アイシン精機)

【03】都築數樹氏(アイシン精機)

【02】塚本高敏氏(アイシン精機)

【01】大橋正明氏(アイシン精機)