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    <title>JAPIA　ものづくり紀行</title>
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    <title>【第11回】　安部良夫氏（金属加工機械組み立て工・デンソー工業技術短期大学校校長）</title>
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    <published>2010-07-28T02:24:08Z</published>
    <updated>2010-07-28T02:35:53Z</updated>

    <summary>【11】安部良夫氏（デンソー工業技術短期大学）</summary>
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        <![CDATA[<h3>「認められる喜びがやりがいにつながります」</h3>

<h4><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_no11abe_01.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_no11abe_01.jpg" width="150" height="150" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>第１１回は、㈱デンソー技研センターのデンソー工業技術短期大学校校長の安部良夫（あべ・よしお）さんです。安部さんは島根県出身の１９５３年１２月生まれの５６歳。入社以来、金属加工機械組み立て分野を中心に、ほぼ一貫して技能訓練業務に携わっているデンソーの同業務の第一人者です。６９年４月日本電装（デンソー）に電装学園訓練生として入社、７２年４月工機部組み立て一課に配属、７４年から職業訓練指導員として工業技術研修センターに異動、８９年１２月工業技術研修センター基礎教育課班長、９６年１月技術技能研修部技能検定課係長、２００５年１月デンソー技研センター海外コンサルティング部部長、０６年１月同・研修部部長、０８年１月技能研修本部副本部長、０９年１月同本部長などを経て、１０年４月から現職。この間、１９７３年４月技能五輪広島県大会「機械組み立て仕上げ」部門で優勝し、全国大会に出場したのをはじめ、７６年１２月技能検定２級治工具仕上げ作業の成績優秀で技能検定協会会長賞、８５年８月全国高校定通制陸上競技大会の２０周年表彰で同大会会長賞、２００２年１１月認定職業訓練事業で愛知県優秀技能者表彰、０５年１１月優秀技能で愛知県優秀技能者表彰など、数々の栄誉に浴され、０８年１１月には同年度の「現代の名工」に認定されています。</h4>

<h5>■会社関係者らの目にとまった訓練生時代</h5>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_no11abe_02.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_no11abe_02.jpg" width="300" height="438" class="mt-image-none" style="" /></span>
<p>　デンソーの「ものづくりを支える人づくり」の技能訓練分野の第一人者の安部良夫さん。ものづくりの第一線で活躍する技能者や、技能五輪選手などを数多く育て上げた実績の持ち主だ。時には、異業種の技能や知識なども学んで、ものづくりの多様化に備える先見性も発揮したりして……。「いつも教える時には、その３倍は勉強して準備しています」。語る言葉に自信が溢れる。それでいて、地元少年野球の監督として指導などに汗を流したり、最近は菊づくりにも挑戦するなど、多彩な表情も見せる安部さんだ。</p>
<p>　入社から３年間の訓練生時代。そして、大会に備えて厳しい訓練を繰り返した「技能五輪訓練」。いずれも、その後の安部さんのものづくり人生を支える土台を築いた数々だ。今も振り返ると、鮮やかに蘇ってくるのか。口調が滑らかだ。</p>
<p>　まずは、訓練生時代から。「機械の使える仕上げ工」の基礎技能と知識などを学んだ。「同期生は８１人いました。基礎技能を学んだり、作業設備なんかも作りましたね。伸び伸びと技能や知識を学んだという印象が強いですね。訓練が終わると、体を鍛えるため、東刈谷の社員寮まで５キロくらい走って帰ったもんですよ」と、懐かしそうだ。そんな中、安部さんの仕事に対する真摯（しんし）な姿勢や、卓越した技能などが会社関係者らの目にとまり、技能五輪の選抜メンバーに選ばれた。</p>
<p></p>
<h5>■「この程度」ならの油断で出場を逃す再チャレンジの全国大会</h5>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_no11abe_03.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_no11abe_03.jpg" width="300" height="224" class="mt-image-none" style="" /></span>
<p>　１９７３年４月、安部さんは、技能五輪広島県大会「機械組み立て」部門に出場、見事、優勝。技能五輪全国大会出場の切符を手にした。が、全国大会では入賞を逃した悔しい思いした。これを機に「全国レベルの技能到達」を目標に掲げ、技能五輪訓練の拍車がかかった。</p>
<p>　すり合わせ定盤の３枚すり合わせ、製品の直角度を測定する「スコヤ」や角度測定に使用する「Vブロック」のラップ仕上げなどの、０．００１ｍｍを超える高精度加工を自ら行い、やすり仕上げでは、経験豊かな熟練者が持つ「カンコツ」をマスターして、計測器を使わずに平行度０．０２ｍｍに加工するなど、全国大会に向けて厳しい訓練を繰り返した。</p>
<p>　そして、再チャレンジで臨んだ翌春の広島県大会。ちょっとした油断が致命傷となって、入賞を逃したという安部さん。「精度が求められる最終仕上げのキサゲで、これなら満点が取れると安心し、油砥石で加工面を擦ったところ、細かい粉が残っていて、平面にビシッと傷がついてしまって……」。今も、脳裏に焼き付いている痛恨事だ。が、それが却って、磨き上げた全国レベルの技能や、何事にも率先垂範で取り組んでいく姿勢を際立たせていて、安部さんのものづくり人生が開けていくのだから、人生は何が幸いするか分からない。待っていたのは、職業訓練指導員への抜擢だ。</p>
<p></p>
<h5>■ほぼ一貫して歩んだ技能訓練分野</h5>
<p>　以来、安部さんはほぼ一貫して「ものづくりを支える人づくり」の技能訓練分野に取り組んでいく。「認められる喜びがやりがいにつながります」を糧に、安部さんは「技術革新に対応した技能訓練開発と実践」を念頭に技能訓練分野の体系化に情熱を注いだ。具体的には基礎から高度技能までを網羅した技能訓練体系の確立で、①専用機実習教材の開発と新規研修の立ち上げ②熟練者が技能を競い合う上級試験「保全」種目の開発③技能系専任職（エキスパート）昇進前研修④技能グランプリ「機械組み立て」職種の競技課題開発と競技運営⑤新入社員向け「気づきの研修」・「モノづくり入門研修」の開発と海外拠点展開⑥技能評価技法研修教材開発と指導実施――などを、職場の皆さんの協力も得ながら次々と具体化した。</p>
<p>　とりわけ、ものづくりの多様化を背景に８０年代から急増した高度合理化設備。安部さんがそこで着目したのは、それに対応した技能者づくりだ。スピンドルユニット組み付けや、あらかじめ定められた順序、手続きに従って、制御の各段階に逐次、進めていくＰＬＣ（プログラマブル ロジック コントローラ）制御による搬送装置組み付け課題などの専用機実習を開発する一方、生産設備製作、設備の保守保全に関する技能訓練実施体制も併せて確立した。それが、８６年の「専用機実習教材の開発と新規研修の立ち上げ」だ。</p>
<p></p>
<h5>■異業種の分野を学んで、ものづくりの多様化に備える</h5>
<p>　そこには、ものづくりの多様化を睨んだ地道な努力の積み重ねも。８５年１１月、安部さんは職業能力開発大学校の短期指導員訓練課程に入学、異業種の電子科を専攻しつつ、電子電気に関する専門知識や技能のほか、教育心理学、生活指導法などの指導科目も履修した。さらに、卒業後には専門分野の金属加工機械組み立てに加え、自身が電気、PLC 、ロボット制御なども指導できる「メカトロ指導者第１号」となって、多能的技能者としての先鞭をつけたことも見逃せない。</p>
<p>　２００４年には拡大する海外拠点を対象にした新入社員向けの「気づきの研修」・「モノづくり入門研修」を開発、目下、海外拠点で展開中だ。日本と同等の品質確保が求められる海外拠点でも、ものづくりの考え方や基本技能を短期間で教え込むために開発した新入社員用の研修だ。安部さんはこのため、その海外拠点展開に向けて自らも出張指導を行い、ローカル指導者育成にも取り組んだ。現在、中国など５カ国１５拠点で１５４人の指導者が育成されていて、拠点独自の研修も可能となったという。</p>
<p>　安部さんはまた、中央職業能力開発協会（JAVADA）の技能評価技法検討委員会委員をはじめ、技能グランプリ機械組み立て競技主査、日本自動車部品工業会「中小企業支援ものづくり部会」人材支援タスクフォ―ス（TF）のリーダーとして、社外でも「ものづくりを支える人づくり」の技能訓練分野の重要性をアピールするなど、次世代のものづくりを担う後進の育成に力を注いでいる一人だ。</p>
<p></p>
<h5>■「父は雲州算盤の職人です」</h5>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_no11abe_04.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_no11abe_04.jpg" width="300" height="347" class="mt-image-none" style="" /></span>
<p>「これが父の作った算盤です」。算盤袋から大事そうに安部さんが取り出した年季の入った１丁の算盤。この日、自宅からわざわざ持ってきてくれた父親が作った算盤だ。「えぇ、父は雲州算盤の職人です」。雲州算盤は、素早い珠の動きやパチパチと冴えた高い音色などが特徴だ。松本清張の小説「砂の器」では「高級算盤」として紹介された雲州算盤。１９８５年には手作り製法を保持する目的から、国の伝統的工芸品にも指定された島根県を代表する工芸品の一つだ。</p>
<p>　「父は若い頃、関西の電機会社に勤めていましたが、旋盤操作を誤って、指を負傷してしまったので、故郷の島根県に帰ってきて、算盤職人になったと聞いています」。父親の算盤には「雲州佳章」の銘が刻まれ、安部さんが幼い頃でも「１丁随分高価な値段で売買されていた」という。</p>
<p>　そんな環境に生まれ育った安部さん。父親の算盤づくりを眺めながら、自然とものづくりの面白さや楽しさを育んでいった。が、愛知県の日本電装（現デンソー）に就職が決まった時には、両親が「どうして愛知県の会社に就職するのか」と猛反対したという。当時、島根県の場合は、就職先の大半は地元か、隣県の広島の会社、遠くても大阪など関西地方止まりが相場だった。現に、安部さんの兄は地元の電力会社に就職した。</p>
<p></p>
<h5>■「親の反対を振り切って」愛知県へ</h5>
<p>　それが、大阪を通り越して愛知県刈谷市の日本電装に就職するのだから、両親が反対するのも無理もなかった。「だから、親の反対を振り切って、という表現がぴったりです。でも、どうして振り切ってきたのか、今もはっきりは分かりませんがね」。その頃、流行っていたザ・フォーク・クルセダーズが歌った「青年は荒野をめざす」（作詞五木寛之）の心意気だったのか。それとも、「この道しかない春の雪ふる」（種田山頭火）の句境のようだったのか。安部さんは、人生の進路をピタリと愛知県へと向けた。</p>
<p>　あれから４１回目の春。父親とは取り組んだものづくりの分野は異なったものの、そのDNA(遺伝子)をしっかり受け継いで、自動車部品の技能訓練分野で見事、それを開花させている安部さん。あの時の「親の反対を振り切って」という選択は決して、間違っていなかったようだ。</p>
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    <title>【第10回】　水野幸夫氏（プレス金型工　豊田自動織機）</title>
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    <published>2010-01-12T07:33:55Z</published>
    <updated>2010-01-12T07:36:18Z</updated>

    <summary>【10】水野幸夫氏（豊田自動織機）</summary>
    <author>
        <name>JAPIA</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.japia.or.jp/professional/">
        <![CDATA[<h3>「仕事はやり遂げなければという責任感だけでやってきたまでです」</h3>
<h4><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_no10_1.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_no10_1.jpg" width="150" height="150" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>第10回は、2009年度秋の褒章で「黄綬褒章」を授与された豊田自動織機の水野幸夫（みずの・ゆきお）さんです。水野さんは愛知県出身の1949年６月生まれの60歳で、品質保証を含めて同社の金型製作の第一人者です。65年４月豊田自動織機に職業訓練生で入社、66年４月自動車製造部プレス金型課プレス金型仕上げ、85年２月工機部製造課プレス金型組長補佐、89年１月同・プレス金型組長、95年２月同・プレス金型工長、98年１月工機事業室型技金型品質管理ワーキングリーダー、2007年１月同・型保証グループなどを経て、08年11月から同・型技術室プレス計画グループ工程整備ワーキンググループチーフエキスパートです。また、水野さんは1966年企業内職業訓練所技能競技会で仕上げ技能成績優秀表彰、同年の年間成績優秀者として社長表彰、72年技能検定優秀作品評会で治工具仕上げ作品優秀者表彰、96年優良従業員表彰で愛知県大府市商工会会長賞、2003年自動車プレス金型工で愛知県優秀技能者など、数々の栄誉を受賞され、08年11月には同年度の「現代の名工」に認定されています。</h4>
<h5>■今秋の「黄綬褒章」受章で２年連続の栄誉に輝く</h5>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_no10_2.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_no10_2.jpg" width="300" height="280" class="mt-image-none" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>
<p>どこからか、演歌が聞こえてきそうな雰囲気もある水野幸夫さん。たとえば、大正琴のイントロに乗って始まる村田英雄が歌った「人生劇場」なんかが、似合うかも知れない。仕上げ見習いから金型製作一筋に打ち込んで44年。昨年６月に“アラ還”（アラウンド還暦）を迎えた水野さん。今秋は、金型製作を通じてコツコツと積み上げてきた数多くの功績が高く評価され、「黄綬褒章」も受章。昨秋の「現代の名工」認定に続き、２年連続の栄誉に輝いた。「私なんかが、頂いていいのかな」。グッと喜びを抑え込んでいる水野さん。やはり、演歌の世界が似合いそうな人である。</p>
<p>実家が農家の水野さん。７人兄弟で兄３人姉３人の末っ子。「子供の頃から農機具やクルマなどの機械に囲まれて育ちましたね。農機具に隠れてかくれんぼをしたり、時にはエンジンなんかを分解したりして遊んだものです。もっとも、その頃は壊す方が多かったけれど」。といって、その頃、将来はものづくりの世界に「どうしても就きたい」という強い意思はなかった。長男は農協に勤めながら実家の農業を継ぎ、次兄は豊田自動織機に勤めていて、どちらかといえば、水野さんの“15の春”はむしろ、車の整備士に「進みたい」と考えていた。</p>
<h5>■次兄と同じ「ものづくり」の道へ</h5>
<p>それが一転して、ものづくりの世界へ。「親戚に他の自動車部品メーカーに勤めている人がいて、『うちの会社に来ないか』と勧めてくれましてね。でも、それなら、次兄が勤めている豊田自動織機の方がいいのではと思って」。そこが人生の微妙なあやのようである。「結果的に、次兄と同じ道を歩んでいましたね」と、水野さん。1965年４月、次兄と同じ豊田自動織機に職業訓練生として入社、ものづくり人生の第一歩を踏み出した。</p>
<p>同期の訓練生は、愛知県出身を中心に43人。訓練期間は１年間。治工具仕上げをはじめ、機械、鋳物、板金などに分かれて、座学と実技の基礎技能を学んだ。水野さんは、金型仕上げ部門。やすりがけなどの実技はもちろん、コンパス、ハンマー、タガネなどの工具も自分で作り、金型製作のイロハをみっちり叩き込まれた。水野さんはその訓練生時代に優秀な成績を修め、卒業時には「年間成績優秀者」として社長表彰され、一目置かれる存在に浮上したのである。</p>
<h5>■“いっこく者”が集まる職場で鍛えられて</h5>
<p>卒業後、配属されたのはプレス金型仕上げ部門。「鉄は熱いうちに打て」とばかりに、水野さんは人間的にも、技術的にも徹底的に鍛え抜かれたという。「職場には『いっこく者』（一徹者）と呼ばれる先輩が多かったですね。つまり、仕事のできる優秀な方ばかりが集まっていまして、それだけに仕事には厳しい職場でした。でも、指導が的確だったので、振り返ってみると、技術や技能を磨くには、最高の職場でしたよ」。配属から６年目の72年11月、水野さんは初めて技能検定「２級仕上げ技能士」に挑戦。もちろん、合格。技能磨きに弾みをつけるきっかけになった。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_no10_3.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_no10_3.jpg" width="300" height="300" class="mt-image-none" style="" /></span>
<p>一般的に、自動車のドアなど大型のプレスは、一枚の鉄板からさまざまな型を塑性成形する「絞り工程」、不要部分を切ったり、穴開けの「外形工程」、周りなどの折り曲げを行う「曲工程」の３工程からなっている。このため、プレス品の不具合現象（イラスト参照）には、(1)曲げなどの成形後、金型から離れる際、弾性回復などによる元の状態に戻ろうとする「スプリングバック」　(2)成形後金型から離れる時に、弾性回復と残留応力のアンバランスで発生する「ネジレ」　(3)縦壁などを絞り成形する時に材料が金型のＲ部分を通過する際、残留応力による「ソリ」などがあって、これらを克服して「自分に納得ができる製品が作れるようになるまでに10年以上はかかりましたね」と、水野さん。</p>
<p>「資格は、実際の仕事の上に反映されて当然だ」という職場だから、「資格を取得したからといって、それに見合った仕事ができなければ一人前とは認めてくれませんでしたね」。資格の内実が、実際の仕事面から問われる職場だった。「で、鋳物の『砂おとし』をはじめ、けがき、やすりがけなど、基本的な技術や技能は何度も、反復練習して身につけてきました。それでなければ、職場では一人前じゃないですからね」。そんな地道な努力を積み重ねながら入社13年目、２級仕上げ技能士合格から６年目の78年10月に「１級仕上げ技能士」に挑戦、見事、合格。さらに、93年３月には「特級仕上げ技能士」にも合格。水野さんは名実ともに、同社の金型製作の第一人者としての地歩を固めた。</p>
<h5>■トヨタの「品質管理優秀賞」を10年連続で受賞の快挙も</h5>
<p>「勇将の下に弱卒なし」。こんな諺を地でいく"金字塔"を水野さんは打ち立てる。一途な努力が実を結んだ真骨頂の一つでもあるのだ。品質保証部門の総監督としてトヨタ自動車から10年連続で受賞した「品質管理優秀賞」が、それだ。始まりは81年の１車種総発注を開始したトヨタ自動車の精度確保の難しい高張力鋼板部品「シャシー構成部品」のヒネリや、スプリングバックなどの難問を解決した案件からだ。</p>
<p>そこでは、金型製作方法をはじめ、品質の作り込み、ノウハウなど、これまでに培ってきた技能や知識を動員して、スプリングバック、ヒネリなどの難問を相次いで克服。それを突破口に、次々と金型改善、新工法の開発などへと発展させ、トヨタ自動車から10年連続で「品質管理優秀賞」を受賞し続けるという快挙をやってのけたのである。「いやいや私は下積みが長かかったから、与えられた仕事をやり遂げなければという責任感だけでやってきたまでですよ」と、一笑に付す水野さん。</p>
<p>この賞はトヨタ自動車が設備の仕入れ先に対して品質を評価する賞で、年初に同自動車の購買部門から評価項目と期待値が示され、年度末の各評価項目を集計し、ランキングを決める。評価項目は日程遵守率／原価／品質などで、その品質項目はトライアウト中断、製品精度合格率（金型で成形したプレス品を製品データとの差異を三次元測定器などで数百ポイント測定し、規格値に合致している率）で評価される。</p>
<h5>■最も重視した指標は製品精度合格率など「品質」</h5>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_no10_4.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_no10_4.jpg" width="300" height="480" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>
<p>この中で、水野さんが最も注意を払った指標は「品質」。決められた生産準備日程の中で、「製品精度合格率をいかに達成するか、さらにはトライアウト中断なしをどう実現するか、をグループ全員の合言葉に取り組み組ました」と振り返る。ちなみに、トライアウト中断は完成した金型を作り込み生産ラインに持ち込み、量産性や品質などを総合的に判断する場面で重大欠陥により、全ての評価ができずに終わってしまう最悪のケースだ。これらをチーム全体の力を結集して克服したところに、10年連続受賞という快挙の原動力があったのだ。いうまでもなく、それは水野さんのリーダシップによるところが“大”だ。</p>
<p>「最近、職場の同僚らからやさしくなったといわれるようになりましてね。ということはこれまで、職場ではきつかったのかな」。照れ笑いを浮かべる水野さん。このところ、８年前に工房を自作して本格的に始めた天然木を利用した木工品づくりにも凝っているという。「近くに住んでいる２歳と５歳の孫に木工品の玩具や、子供椅子なんかを作ってやると、喜んでくれてね。木工品づくりも、楽しみになってきましたよ。最近は、社長や工場長にも黒檀で作った自作の耳掻きを差し上げました。それに、ベランダ、フェンス、テーブルなども作っていますよ」。ものづくりへのモチベーションを保ち続ける狙いからも、木工品づくりに励む水野さん。根っからのものづくり大好き人間なのかもしれない。</p>
<h5>■「切干やいのちの限り妻の恩」</h5>
<p>今秋、水野さんは休暇を取り、長年支えてくれた奥さんと二人で北海道へ２週間のドライブ旅行に出かけたという。</p>
<p>「切干（きりぼし）やいのちの限り妻の恩」（日野草城）。</p>
<p>水野さんから話を伺っていて、こんな句が浮かんできた。俳人の茨城和夫さんは「句の菜時記」の中で、「作者の日野草城が“切干”という庶民的な季語を前面に出して妻のやさしさ、あたたかさを詠んだ句ではないか」と評していて、水野さんとも重なる面も。</p>
<p>そういえば、冬の風物詩の一つに数えられる「切干大根」。かつては、刈谷市など愛知県三河地方を代表する全国的に有名な特産品の一つだ。水野さんは「余談ですが」と前置きして、「実は花切干は、近隣では私の祖父が始め、中学生の頃は父も大根を干して作っていました。そして、専用の機械で切る商売もしていましたね。でも、最近は（大根を）丸のままに干すのは見かけなくなりました」と、懐かしそうである。三河地方はまもなく、冬本番の季節を迎える。</p>]]>
        
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    <title>【第９回】　中村誠次氏（電気溶接工　豊田自動織機）</title>
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    <published>2009-11-06T04:00:11Z</published>
    <updated>2010-01-12T07:23:59Z</updated>

    <summary>【09】　中村誠次氏（豊田自動織機）</summary>
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        <name>JAPIA</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.japia.or.jp/professional/">
        <![CDATA[<h3>ビードは「きれいに、きれいに」をモットーに溶接の技を磨いてきました</h3>
<h4><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_no9_01.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_no9_01.jpg" width="150" height="150" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 0 20px;" /></span>
　第９回は、豊田自動織機の中村誠次（なかむら・せいじ）さんです。中村さんは、長崎県出身の1952年９月生まれの57歳で、金属と金属を溶かして接合する溶接分野の第一人者です。1968年４月職業訓練生として入社、69年４月共和工場産業車両製造部製造課電気溶接工、70年６月高浜工場同、86年１月同組長補佐、91年２月同組長、2003年１月同・ＣＸ（チーフエキスパート）級などを経て、04年８月から同・ＣＸ級ＷＬ（ワーキングリーダー）です。その傍ら、1969年３月に社長表彰の訓練生成績優秀者賞を受賞したのをはじめ、75年11月鉄工・製缶作業愛知県知事賞、76年、82年、85年、89年と愛知県溶接技術競技会技能者賞を４回受賞、2007年11月愛知県優秀技能者賞、08年２月日本溶接協会支部長賞など、数々の栄誉に輝き、同年11月には同年度の「現代の名工」にも認定され、ものづくりの世界で頂点を極めています。</h4>
<h5>■今秋、「技能五輪国際大会」で教え子が銅メダル獲得</h5>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_no9_02.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_no9_02.jpg" width="300" height="379" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>
<p>　「募集しているぞ」。何気ない父親の一言から溶接の世界に飛び込んだ中村誠次さん。生来から素質が備わっていたのか。「入社１年目の職業訓練生の頃から、溶接の面白さというか、面白味というのを覚えてしまって」。以来、溶接に「どっぷり」浸かって41年。溶接作業のロボット化をはじめ、機器改善、技能教育などでも多彩な能力を発揮。今や、溶接が"天職"の観がある中村さん。昨秋はそんな実績が高く評価され、「現代の名工」に輝いた。そればかりか、後進の育成にも全力を注ぎ、これまでに技能五輪全国大会で金メダリスト２人を育て上げ、今秋には教え子の一人が技能五輪国際大会の溶接職種で見事、銅メダル獲得の快挙が続いた。「ほっとしています」と、満面の笑みを浮かべる中村さん。溶接人生にまた、新たな１ページが加わった。</p>
<p>　のどかな田園風景が周囲に広がる豊田自動織機の高浜工場。その工場内の一角に設けられた「溶接道場」が、どことなく誇らしげである。「えぇ、ここで技能を磨いた若手が技能五輪国際大会で銅メダルを獲りましてね。今日は、その報告を兼ねて森さんは名古屋の愛知県庁に挨拶に出かけています」。溶接道場の道場師範を務める中村さん。若手の快挙に中村さんの口調も滑らかだ。カナダのカルガリーで９月１日から６日まで開かれた「第40回技能五輪国際大会」の溶接職種で銅メダルに輝いた若手とは、同社の若手社員、森裕一（22）さんのことだ。</p>
<h5>■「ぜひメダルを」の周囲の期待に応えて教え子が快挙</h5>
<p>　「若いですけど、森さんは素晴らしい考え方の持ち主ですよ」。中村さんの"森評"はすこぶる高い。「技能五輪国際大会に出場するにはまず、レベルの高い愛知県の溶接競技会を勝ち抜かなければなりません。森さんはそれを勝ち抜いて全国大会を制して日本代表の切符を手にしたわけですから、凄いですよ。溶接技能者にしてみれば、大変なことです。若い頃の私なんかは、愛知県の溶接競技会止まりでしたからね」。それだけに、森さんへの周囲の期待は会社を含めて大きく、「ぜひ、メダル獲得を」の声が上がっていた。森さんはそんな期待に応えて銅メダルを獲得したのだ。</p>
<p>　ちなみに、森さんが銅メダルを獲得した「溶接職種」はステンレス鋼、アルミニウム、軟鋼材料を溶かして接合する競技で、時間内に４課題を製作して技能を競うものだ。ただ、金属は熱により膨張や収縮をしたりするため、作品に"ひずみ"が生じ易く、精度を出すことが難しく、技能の習熟に加え、金属材料に関する幅広い知識も求められるという。審査は寸法精度や耐圧、溶接作業で溶着部分にできる帯状の盛り上がり「ビード」と呼ばれる外観形状、内部欠陥の有無などが対象である。</p>
<h5>■溶接人生の土台をしっかり築いた訓練生時代</h5>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_no9_02.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_no9_03.jpg" width="300" height="415" class="mt-image-right" style="" /></span>
<p>　長崎県出身の中村さん。愛知県にやってきたのは42年前の夏、中学３年生の時だった。父親の勤める炭鉱が閉山したからだ。父親の再就職先が豊田自動織機だったことから、中村さんも家族と一緒に長崎県から愛知県に移住してきたという。移住してきてから暫く経ったある日、父親から「うちの会社の職業訓練所の溶接科というところで新入社員を募集しているぞ」という募集情報を聞かされた。が、父親は「受けろ」とは、中村さんには言わなかった。その時、中村さんはものづくりのイロハ、ましてや溶接のことなどは何も知らなかったが、就職先を決めなければとの思いから入社試験に臨んだという。</p>
<p>　中村さんは1968年４月、職業訓練所溶接科の訓練生として豊田自動織機に入社した。訓練期間は１年。同期生は全国から１５人が集まった。実技と座学を通じて溶接を専門的に学んだという。「あの１年間で溶接の基礎をしっかり学んだと思っています」。中村さんは懐かしそうに振り返る。それが、結果的に溶接の世界で大成する土台を築き、中村さんの溶接人生をがっちり下支えしていたのである。</p>
<h5>■入社１年目から「先生より巧いぞ」の評価も</h5>
<p>　訓練生時代にはこんなエピソードも。溶接練習の時である。溶接作業の際、金属と金属との溶着部分にできる中村さんのビードの外観形状が、先生の目にとまった。思わず、先生は「先生よりも巧いぞ」と声を上げ、中村さんのビードを絶賛したという。入社１年目の訓練生に、である。入社早々から、ビードは「きれいに、きれいに」を心がけて溶接の練習に励んでいた中村さん。その姿勢が先生から高く評価された上に、「後輩のために見本になるようなビードを作ってくれ」と、注文されるまでに溶接技能を高めていたのだ。俄然、中村さんの向上心に"火"が点いたのはいうまでもない。</p>
<p>　69年の卒業と同時に配属されたのが、共和工場産業車両製造部製造課。１年後にはその後、仕事の上でホームグランドになる高浜工場の同じ部署に異動するが、中村さんが一貫して取り組んだのは溶接作業。「同僚も先輩も優秀な方が多かったですから、共和工場でも、高浜工場でも仕事に関しては刺激的なところでしたね」。そんな中で、中村さんがいち早く着目したのは、溶接作業のロボット化だ。1978年頃から溶接作業のロボット化が社内で主要なテーマに上り、本格検討が始まったのだ。以来、中村さんはこれまでに培ってきた溶接技術をフルに駆使し、溶接のロボット作業化に向けて最適条件の設定づくりなどに精力的に取り組んでいく。</p>
<h5>■課題を克服して溶接のロボット化へ</h5>
<p>　具体的には、フォークリフトの中心作業であるフレームやマストの厚板（ｔ＝19ｍｍ以上）鋼板溶接、多層溶接の「ロボット溶接作業」化への移行だ。フォークリフトは荷物を運ぶことを目的にした車両で、運転席の前や横にフォークというアタッチメントを装備し、荷物をフォークで受けて上下積載移動が可能な荷役運搬車のことだが、その胴体部分を構成する部品「フレーム」や、その前部にあり、荷物を高所に揚げ降ろしする荷役装置の「マスト」などの作業は、溶接が大半を占める。このため、溶接作業のロボット作業化が社内で急務な課題に浮上していた。</p>
<p>　例えば、多層溶接は、大脚長（脚長は継ぎ手の隅から溶接ビードの長さ）ビードを作るためにビードを２つ以上重ねる溶接のことで、ロボット作業化への移行にはビード継ぎ、脚長などの強度確保のために、トーチの角度、速度、運棒などの溶接条件の設定という難題を克服する必要があった。そこで、中村さんは品質課題などを解決する独自の溶接法を策定するなどして、ロボット作業化を実現し、軌道に乗せたという。さらに、その「ロボット溶接条件表」をもとに、高浜工場の厚鋼板溶接ノウハウをロボット教示や溶接条件設定に数多く盛り込むとともに、溶接機器の改善整備にも取り組むなど、自身の溶接技術をフルに活用して実現した。</p>
<h5>■溶接以外の技能も取得した「複合技能士」</h5>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_no9_04.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_no9_04.jpg" width="300" height="328" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>
<p>　また、中村さんは溶接技能に加えて1982年に１級曲げ板金作業技能士、94年に１級製缶作業技能士、99年に１級構造物鉄工作業技能士などの技能検定を次々と取得、２職種（２作業）以上の技能検定に合格した技能者に与えられる「複合技能士」にもなった。そのために、通常業務をこなしながら地元工業高校の定時制に通って幅広く知識を学んだ努力家でもある。</p>
<p>　また、複合技能士として後進の育成にも熱心に取り組み、技能五輪全国大会では構造物鉄工、電気溶接の２職種で２人の金メダリスト、さらに今秋の国際大会では銅メダリストを育て上げるなど、その指導ぶりは折紙つきだ。このため、愛知県内でも後進の育成では有数の指導者の一人として数えられている。「一心不乱」が、座右の銘の中村さん。後進への教育にも全力投球で当たる。その原動力は自身の向上心だという。</p>
<h5>■迷った時に「溶接しかない」で踏みとどまる</h5>
<p>　今年３月、同社で初めて開催された「全社技能競技会」。中村さんは実行委員の一人として企画段階から参画、これまでに培った経験を活かし、全社的な技能向上に貢献したことも記憶に新しい。そんな中村さんもかつて、ものづくりに挫折しかかった時も。「若い頃の一時期、知人からの誘いもあり、会社を辞めて転職を考えたこともあります。そんな時、父から『じゃ、会社を辞めて、お前に何ができる、ほかにできることがあるのか』と、たしなめられましたね。その時、思いましたね、私には溶接しかないと」。今も、父親への感謝の気持ちは人一倍強い。</p>
<p>　「42年前に長崎から愛知県にやってきて、私の運が開けたように思っています。その意味では、愛知県に来ることを決断した父には感謝しています。息子も、同じ職場で溶接の仕事に就いています」。中村さん一家は、親子２代で溶接人生を歩んでいる。「親の姿を見て子は育つ」というから、息子さんも中村さんの影響を受けたのであろうか。季節は秋本番。「稲妻やかよふあしたのはらみ稲」（池西言水）。江戸時代から稲妻がよく走る年は豊作だといわれている。今年も、実り豊かな秋を迎えた中村さんだ。</p>
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    <title>【第８回】　秋山康夫氏（旋盤・機械工　GKNﾄﾞﾗｲﾌﾞﾗｲﾝﾄﾙｸﾃｸﾉﾛｼﾞｰ）</title>
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    <published>2009-08-26T03:57:44Z</published>
    <updated>2009-08-26T04:43:38Z</updated>

    <summary>【08】　秋山康夫氏（GKNﾄﾞﾗｲﾌﾞﾗｲﾝﾄﾙｸﾃｸﾉﾛｼﾞｰ）</summary>
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        <name>JAPIA</name>
        
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        <![CDATA[<h3>「図面を見て、加工イメージが描けなければ一人前じゃないですね」</h3>
<h4><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_akiyama.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_akiyama1.jpg" width="150" height="150" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 0 20px;" /></span>
<p>第８回は、"蔵の町"で知られる栃木市に本社を構えるＧＫＮドライブライントルクテクノロジー社を訪ね、人事課人材開発企画・訓練指導で活躍する秋山康夫（あきやま・やすお）さんにご登場願いました。秋山さんは栃木県出身で、１９４８年３月生まれの６１歳。６７年に栃木富士産業（現ＧＫＮドライブライントルクテクノロジー）に機械工として入り、８４年生産技術課冷間鋳造立ち上げ、８５年処理課班長後係長、９６年人事課上級主任、２００１年人事課主担などを経て、０８年３月から現職。その一方で、１９９９年に中央職業能力開発協会から「高度熟練技能者」と認定されたのをはじめ、２０００年に栃木県の「卓越技能者」として知事表彰され、０２年には「とちぎマイスター」にも認定されています。そして、０８年１１月に国の「現代の名工」に選ばれるなど、栃木県を代表する金属機械加工の第一人者です。</h4>

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_akiyama5.gif" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_akiyama5.gif" width="224" height="550" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>

<p>　ものづくりを"面白がっている"人がいる。GKNドライブライントルクテクノロジー社の秋山康夫さんだ。貪欲に技能を磨き続け、昨年１１月に認定された「現代の名工」を含めると、免許や資格などの取得件数（別表）は、実に２５に上る。「小学生の頃から物を作るのが大好きでしたね」と秋山さん。そんな初心を忘れずに、ひたすらものづくりに励んで４２年。「ものづくりの面白さを知り、ものづくりが面白いからですよ」。さらりと言ってのける。「でも、ものづくりは私の人生そのもののように思えます」。いまや、ものづくりを楽しんでいるような秋山さんだ。</p>
<h5>■今春、初めて教え子が入社</h5>
<p> 「高度熟練技能者」や「とちぎマイスター」などの技能が買われ、秋山さんはこの数年、栃木県内の産業技術専門学校や工業高校の学生らに旋盤作業の実技を指導している。今春、その教え子の一人が、ＧＫＮドライブライントルクテクノロジー社に初めて新入社員として入社したという。「教えた方が入社してきたのは初めてです」。自然と笑みがこぼれる。しかも、自身の母校工業高校の後輩だというから、なおさらだ。</p>
<p> 「若い学生が無駄な努力をしなくても、理解して貰えるようポイントを絞って教えています」。教え方にも工夫を凝らしている。その上に、これまでに培ってきた自身の技能を惜しみなく注ぎ込んでいる秋山さん。「それが入社のきっかけになったのであれば、そんな嬉しいことはありませんね」。講師冥利に尽きようか。「でも、一度に教えられる学生は６人くらいかな。だから、加工寸法など実技指導の時に失敗した学生には原因を含め改善点を指摘しています」。</p>
<p>　その半面、厳しい一面も。「われわれの世界では図面を見て、加工イメージが描けなければプロとして一人前じゃないですね」。その技能は、ＧＫＮドライブライントルクテクノロー社の切削加工の技術基盤として構築され、実践教育のカリキュラムにも標準化されているほどの腕前だ。その上に、秋山さんは同社が初めて取り組んだ冷間鍛造にも携わり、汎用機で学んだ知識や技能をフルに活用して、独力で同社の金属プレス加工の技術基盤を構築するなど、新規分野にも果敢に挑戦する貪欲さも。</p>
<h5>■基本技能の反復が第一</h5>

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_akiyama2.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_akiyama2.jpg" width="300" height="210" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>

<p> どんな世界でも同じだが、ものづくりも「基本技能の反復が第一」と力説する。「基本技能を何度も繰り返すことで、自分の未熟さを知ります。それを克服するために技能を磨いていきます」。そして、「失敗は財産」とする持論を展開する。「失敗を恐れずに本気になって取り組めば、何でもできます。むしろ、失敗は財産です。失敗をバネに、二度と同じ失敗をしないよう努力するからです」。</p>
<p>　「職場でも、自宅でも気にかかっている案件のアイデアが浮かぶと、すぐにメモに書きとめる癖がついてしまって。ただ、家族からは嫌がれていますが、つい自宅でも職場と同じようにメモを机やタンスにベタベタ貼ってしまいましてね」。時には、こんなモーレツぶりも。「若い頃にメモを枕元に置いて寝込んでしまったら、そのメモの夢が何度か出てきたこともありましたよ」。これまでの数々の改善や考案も、そんな努力の積み重ねの中から結実した。</p>
<h5>■公差を利用して油溝加工の一人作業化実現</h5>
<p>　例えば、原価低減に大きく寄与した「ベアリング油溝加工の一人作業化」の考案。ベアリングは部品と部品の回転部分を効率良く回転させるために用いられる部品で、従来の油溝加工は一人が旋盤の主軸を手回しで廻し、もう一人が声をかけ合いながらバイト（刃具）で切り上げ溝加工する二人作業で行われていた。秋山さんは、そこで①バイトの改善②回転調整のスイッチコントロール化③対称位置合わせ方法の変更――などを効果的に組み合わせ、油溝加工の一人作業化を実現したという。</p>
<p>　具体的には、バイト形状は、実寸法で許される最大許容寸法と最小寸法の差「公差」を有効に使って作製。その上で、両サイドの溝入れバイトは公差最大で、ピッチが大きい溝、つまり潤滑油の油溝として使われる螺旋溝加工は最小でバイトをそれぞれ作製した。両サイドの溝径は公差最大で加工し、螺旋溝径は最小寸法で仕上げ、切削時間の短縮も図ったという。そして、通常はピッチとリードは同じだが、航空部品でかなり使われているリードがピッチの２倍の「２条ネジ」を応用して旋削した。対称位置合わせはケガキ線により合わせることで、簡素化した。旋盤の各ハンドルの所についている目盛板「マイクロカラー」を利用して主軸回転をスイッチでコントロールし、螺旋溝加工を行うなどして、油溝加工の一人作業化を見事、完成させたのだ。</p>
<h5>■エンジンへッドには専用工具の考案も</h5>
<p>　生産性と品質向上を同時に達成した自信作の一つ「エンジンへッドの機械加工」。高度熟練技能者認定など、自らの技能向上に弾みをつけたエンジンへッドの加工技術は、油を加熱気化させたのち、急冷して白煙として広範囲な地域に長時間連続で展張するため，霜害防止用に利用できる発煙機２型に搭載される小型エンジンの部品だ。</p>
<p> この加工には外径溝加工・内径テーパー形状加工に専用工具を考案、工程の標準化を図ったという。外径１０カ所の溝入れはマイクロカラーで荒引きし、仕上げの寸法を決めた。また、内径テーパー加工は途中まで内径段付け、内径テーパーの穴くり加工を行った上で、美しい仕上げ面が必要な加工の時に用いる総形ヘールバイトを作製。図面を見て鋼板にケガキ線を引き、製作したゲージ「ガバリ」に合わせて内径加工した。ヘールバイトは、ジャンク（掴み部分）と刃先との間の逆さu字構造がヘールと呼ばれ、この部分がバネとなり、大きな切り込みでも、小さい切り込みでも刃先の負荷を調整し、食いこむこともなく、「上仕上げ加工」ができるのが大きな特徴だ。</p>
<p> 物のない時代に生まれ育った秋山さん。遊び道具一つにしても、材料から探し回り、あれやこれや工夫を凝らしながら作って楽しんだ世代の一人である。それが結果的にものづくりの心を養い、ものを作る楽しさを育んでいったという。「小学校に入学した頃から本箱や椅子などを作って楽しんでいました。だから、授業は図工の時間が楽しみでしたね」。ものづくりの素質は、その頃から備わっていた。</p>
<h5>■「うちの会社に来ないか」とおじさん</h5>

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_akiyama3.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_akiyama3.jpg" width="300" height="159" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>

<p>　「腕に職を持てば一生食べていけるぞ」。これが、両親が勧めた秋山さんの将来の進路だ。自身もいつの間にか、将来は「腕に職を持とう」とおぼろげながら考えるようになっていたという。だから、高校は地元の工業高校に進学。その頃だった。「親戚のおじさんが高校を卒業したら、『うちの会社に来ないか』と盛んに誘ってくれましてね」。そのおじさんは当時、栃木富士産業（現ＧＫＮドライブライントルクテクノロジー）に勤めていた。「今、振り返ってみると、それがおじさんの私への遺言だったように思っています」。</p>
<p>　栃木富士産業は、１９５２年に旧中島飛行機栃木工場を引き継いで設立された地元では有力企業の一つだ。秋山さんは、おじさんの誘いや自宅から通えることもあり、高校卒業後、同社に入社した。入社早々に配属されたのは試作部門。「とにかく、職場は旋盤など機械加工の技術レベルは高かったです。高校でひと通り機械操作は学んできましたが、レベルが全く違っていました。職場のレベルに近づくために入社３年くらいは必死でした」。プロの世界の厳しさを痛感した時だ。そのために、職場のレベルに早く近づこうと、いろいろな仕事を通じて加工技術のレベルアップに励んだことも。</p>
<h5>■自信に繋がった技能検定合格</h5>

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_akiyama4.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_akiyama4.jpg" width="300" height="310" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>

<p>　「みんなで技能検定を受けてみないか」。声を上げたのは、職場の５年先輩だ。入社５年目だった。しかも、職場で信望のある先輩だ。その波紋は一気に職場に広まったという。当時、「自分の技能はどの程度のなのか」不安を抱えていた秋山さん。ある面では「渡りに舟」の呼びかけに両手を上げた賛成した。これが、ものづくりの面白さを知るきっかけにもなった。自然と技能磨きにも弾みがかかる。１９７２年秋、秋山さんは技能検定「普通旋盤２級」に初挑戦した。もちろん、合格した。</p>
<p>　以来、次々と資格試験や免許などに挑戦。気がつけば、ものづくりの世界では最高峰の「現代の名工」に認定されるまでに技能を高めていた。そこには人並み以上の自身の向上心も見逃せないが、人との出会いも大きい。「その先輩にはいまも、感謝しています。人生の目標を示してくれましたからね。それに、技能検定に合格すると、自分に自信がつきます」。その後、その先輩は会社を辞め、独立した。「先輩が会社を始めた当初は、休みの日にはよく仕事の応援に行ったものです」。現在も、秋山さんが尊敬する先輩の一人だ。</p>
<p>　趣味で１２年前から始めた蕎麦打ちも、評判は上々だ。「お蕎麦はとても美味しいですよ」。会社の若い同僚も太鼓判を押す。なかなかの腕前らしい。蕎麦打ちも、ものづくりと同様に真正面から取り組む秋山さん。年末には年越し蕎麦を打ち、隣近所に「日頃の感謝」を込めて振る舞うのが楽しみだという。まもなく、新蕎麦が出回る季節がやってくる。「師と席を分けあひ旅のはしりそば」（佐山文子）。いつの日にか、こんな光景が秋山さんと今春入社した教え子との間で見られるかもしれない。</p>
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    <title>【第７回】　緒方栄一氏（電気溶接・板金工　プレス工業）</title>
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    <id>tag:www.japia.or.jp,2009:/professional//2.463</id>

    <published>2009-05-15T06:22:41Z</published>
    <updated>2009-11-06T07:12:02Z</updated>

    <summary>【07】　緒方栄一氏（プレス工業）</summary>
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        <name>JAPIA</name>
        
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        <![CDATA[<h3>ものづくりとは「改善していく姿勢を持ち続けることです」</h3>
<h4><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_tuduki.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_ogata1.jpg" width="150" height="150" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>第７回は、関東の企業から初めて「現代の名工」が登場します。ご登場願ったのは、プレス工業ＰＰＷ（プレス工業ものづくり改革）推進部インストラクターの緒方栄一（おがた・えいいち）さんです。緒方さんは、愛媛県出身の1948年６月生まれの60歳で、電気溶接など自動車ボディーの組立仕上げなどの第一人者です。67年にプレス工業に入り、藤沢工場プレス車体課に配属され、70年に同工場組立二課、95年に同工場組立二課製造係長などを経て、2008年７月から現職。この間、神奈川県から1993年に同県の優秀技能者、2000年に卓越技能者（神奈川の名工）を受賞しています。そして、01年には文科省から創意工夫功労者として大臣表彰され、03年秋には厚労省の「現代の名工」に選ばれ、08年度春の褒章では黄綬褒章を受章されるなど、輝かしい実績の持ち主です。</h4>
<h5>■衰えをしらないイノベーション意欲</h5>
<p>　これまでの輝かしい功績の数々も、緒方栄一さんにとってはあくまでも通過点だったようだ。「寝起きの朝方とか、クルマを運転中に改善や考案のヒントがひらめきます」。現場発の積み重ねてきたイノベーション意欲はいまだ、衰えをしらない。物静かな言動に秘められたものづくりへの"熱い"思い。その原点は生まれ育った環境で体にしみこんだものづくりの面白さや楽しさ。さらには、どんな困難な課題にも挑戦していく「なにくそ魂」だったというから、根っからのものづくり大好き人間だ。</p>
<p>　ものづくりを志すには、緒方さんの生まれ育った環境は格好の条件が揃っていた。実家は、祖父の代から造船業を営んでいた。出身は瀬戸内海に浮かぶ大小２７０の島を持つ愛媛県。古くから造船業の盛んな土地柄だ。石を載せて底板を反らしたり、蒸して曲げたり、底板と側板とをぴったり繋ぎ合わせたりーー。物心がついた頃から実際に船が造られていく工程を身近に接しながら育ったという。</p>
<p>　「ものづくりの楽しさや面白さが自然と身についていました」。造船にも、ものづくりの基本的な考え方や技が詰まっていて、いわば「門前の小僧習わぬ経を読む」といったような実家だった。そんな環境のせいか、ものづくりへの興味が膨らんでいく。中学生の頃にはラジオを分解して修理したりすることに熱中、機械や電機関係などにも興味が広がったという。「高校は工業高校の電機科に進もうかと考えたこともありました」が、結局、地元の工業高校機械科に進学した。</p>
<h5>■クルマの魅力にひかれて</h5>
<p>　「高校で知り合った仲の良い同級生がクラブ活動の自動車部に入っていましてね。そんな関係から軽免許（360cc以下の４輪、３輪、250cc以下の２輪）を取り、学校のテストコ―スでクルマを走らせて楽しんだこともあります」。緒方さんは、こうしてクルマの魅力に次第にひかれていく。平凡パンチ、コカコーラ、クルマが、当時の若者文化"三点セット"だったから、この頃から緒方さん自身は、おぼろげながらも卒業後の進路に自動車産業を選んでいたフシも。</p>
<p>　高校の修学旅行では、栃木県の日光を中心に関東各地を巡り、神奈川県の江ノ島なども訪れたという。「関東の気風というか、雰囲気が気に入ったのか、就職先は関東の企業にしようと思いました」。だから、修学旅行から帰ってきて就職先に選んだのは、神奈川県川崎市のプレス工業だった。「学校にプレス工業の入社案内がきていました。その案内を読んだら、関東の企業で、しかも自動車産業だったので、プレス工業にお世話になろうと即断しました」。同期の新入社員は100人くらいだった。東北、九州、四国などを中心に全国から集まっていた。</p>
<h5>■同期生は「負けたくない」</h5>
<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_satou2.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_ogata2.jpg" width="300" height="359" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 10px 20px;" /></span> 
<p>　入社後、配属されたのは、藤沢工場プレス車体課。以来、一貫して緒方さんのものづくりのホームグランドになる藤沢工場だ。「工場が各地に点在していたから、同期生は各地の工場に散らばりました。ただ、他の工場の同期には、負けてはいけないと思いました」。緒方さんは、遠く離れた同期生にもライバル心を燃やしたという。</p>
<p>　冬の晴れた日には丹沢の峰々を従えるように富士山がくっきりと目の前に広がる藤沢工場は1961年に稼働した。同社にとって、当時も最新鋭の主力工場だった。「私が勤め始めた頃は、周囲はまだ田園地帯でした」。現在も、4000トンサイドレール用プレス機、小型アクスル溶接組立ライン、小型アクスル機械加工ライン、小型アクスルユニット組立ラインなどを整える主力工場だ。</p>
<p>　緒方さんは、藤沢市鵠沼の社員寮から通いながら電気溶接・板金工として自動車ボディーの組立仕上げ、サスペンション、リング、アクスルケース溶接組立などの製造に関わり、金属プレス加工や電気溶接の基礎技能を学んだのが、ものづくり人生のスタートだった。上司は一回り上の先輩。「人格的にも立派な方でした。この方にはいろいろと仕事のことを教わりました」。その上司から「（技能検定）受けてみないか」と勧められ、早くも入社２年目の69年７月に金属プレス加工の技能検定２級試験に初挑戦した。</p>
<h5>■「いつか自分も」二十歳の誓いを立てる</h5>
<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_satou2.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_ogata3.jpg" width="300" height="440" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 10px 20px;" /></span> 
<p>　「これです」。緒方さんが、技能研究センターの作業台に置かれたバケツを懐かしそうに手にした。一枚の鉄板からバケツを製作することが、技能検定の課題だった。「切ったり、曲げたり、縮めたり、ヒズミを除去したり、繋げたりしてバケツを製作していきます」。検定はその一連の作業を一つずつチェックし、合否が判定されたという。江戸時代、木工の腕を見るのに、二段式の踏み台、つまりゴミ箱付きの物を作らせたという。削り、刳（えぐ）り、その他木工に必要なあらゆる技術が、過不足なく身についていないときちんとしたものは仕上がらないからだそうだが、このバケツの制作も金属プレス加工の技能がひととおり身についていなければできないところがポイントなのだろう。もちろん、緒方さんは合格した。</p>
<p>　69年、今度は神奈川県主催の「技能競技大会」にも出場、同県の優秀技能者賞に輝いた。その年の晩秋に開かれた県主催の「卓越技能者等（神奈川の名工）表彰式典」に優秀技能者の受賞者の一人として招かれた。そこで緒方さんは、その後の人生を決定づける、ある決意を固めた。晴れやかな舞台の上でスポットライトを浴びて知事から家族と一緒に表彰される「神奈川の名工」ら。「あの光景には感動しました」。今も、脳裏に鮮やかに浮かんでくる40年前の感動的なシーンだ。「いつか自分も」。その時、自身に課した"二十歳の誓い"だ。</p>
<p>　改善や考案を通じて技能磨きに拍車をかけた緒方さん。工場のＦＡ（自動化・省力化）化をはじめ、改善や考案などを通じて技能のレベルアップに力を注いだ。1996年、緒方さんは、藤沢工場のサークル活動を基本とする工場運営実務の改善を目指すＰＭ活動の現場推進リーダーに就いた。工場内の各ラインの教育や、ＰＭ予防保全活動の先頭に立ち、設備故障の低減を図るなど、稼動率の向上に大きく貢献する一方、ＰＭ活動の基礎を社内的にも構築した。</p>
<h5>■手扱い作業の廃止で新機軸</h5>
<p>　さらに、98年にはライン合理化改善プロジェクトのアクスルライン現場推進リーダーを務め、アクスル絞り板自動移載装置の製作など、改善の設計、施工調整、使用できるように仕上げていく玉成（ぎょくせい）を進め、難作業を改善し、工数の低減と省力化に成果を上げた。中でも、「アクスル絞り板自動移載装置」は、ケース各段にスペースを作る工夫と、それらを各段に敷き込み、合わせて別パレットに積み替える自動移載装置を考案し、製作したものだが、手扱い積み替え作業の廃止を実現した画期的な考案だとして、社内外から高い評価を得た一つだ。</p>
<p>　多品種のプレス加工された素材は、１パレット（25枚×６段）に約150枚。一枚の重さは10～15キロ。一日3000枚の手扱い作業。通常、プレス加工品は油分、スケールなどが付着しているため、全数脱脂洗浄してから溶接組立ラインに支給された。しかし、パレット単位で洗浄するため、その洗浄残りやライン支給に向けた取り揃え作業などが手扱いのままだったことから、緒方さんは「製品は軽くても20キロはあります。腰を痛めるのを防止するためにも、手扱い作業の廃止が迫られていました」と、その着眼点を説明した。</p>
<h5>■ついに31年目の秋に念願の「神奈川の名工」を受賞</h5>
<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_satou2.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_ogata4.jpg" width="300" height="464" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 10px 20px;" /></span> 
<p>　そんな緒方さんの改善や考案は社内をはじめ、同業各社の間でも大きな関心を集め、「いつか自分も」の"二十歳の誓い"を立ててから31年目の02年秋、ついに念願の「神奈川の名工」受賞という形で結実。以来、文科省の創意工夫功労者として大臣表彰、さらには「現代の名工」に選ばれるなど、次々と技能者としての栄誉を手にした。「社歴を重ねると、改善や考案も職場全体に目を向けて考えるようになりましたね」と、振り返る緒方さん。改善や考案の着想が、視野をグーンと広げているのが分かる。</p>
<p>　「野球の岩村選手をご存じですか」。緒方さんが、にこやかに切り出した。「同郷の愛媛県出身です」。どこか誇らしげである。今春の第２回ワールド・ベースボール・クラシック（ＷＢＣ）で、日本チームの２連覇に貢献した主力選手の一人だ。「その岩村選手が"なにくそ魂"といっているのをテレビで見ましてね」。緒方さんの座右の銘も、岩村選手と同じ「なにくそ魂」。</p>
<p>　「岩村選手が誰から学んだかは知りませんが、私の場合は恩師からです」。その教えを胸に、ひたすら歩み続けた「現代の名工」への道。白球を追い続ける岩村選手とも重なる。昨秋、緒方さんは、秋田県立秋田工業高校の招きで在校生を前に「私の歩んできた道」をテーマに講演した。「テレビ番組の"ようこそ先輩"みたいなものです」と謙遜したが、緒方さんは講演の中で「改善の意識を持ち、会社に提案していく姿勢を持ち続けることが大切です」と持論を展開。次世代のものづくりを担う高校生らに「持続する姿勢の大切さ」を説いた。「チューリップ喜びだけが待っている」（細見綾子）。緒方さんらしいアドバイスだ。</p>
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    <title>【第６回】　佐藤賢修氏（機械器具組立工　デンソー）</title>
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    <published>2009-04-01T04:52:44Z</published>
    <updated>2009-04-01T05:22:32Z</updated>

    <summary>【06】　佐藤賢修氏（デンソー）</summary>
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        <name>JAPIA</name>
        
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        <![CDATA[<h3>「腕の技にプラスして、幅広い知識や経験が必要な"知的技能"も磨く」</h3>
<h4><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_satou1.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_satou1.jpg" width="150" height="150" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 10px 20px;" /></span>第６回は、デンソー生産技術部ＰＡＬＡＰ事業プロジェクト室次席部員の佐藤賢修（さとう・けんしゅう）さんです。佐藤さんは１９５０年（昭和２５年）１２月生まれの５８歳で、自動車部品の量産を支える専用機組立・調整の第一人者です。６９年（同４４年）に日本電装（現デンソー）に入社、１年間の技能者養成所の訓練を経て、工機部工機１課仕上げ３係、９８年（平成１０年）同組立３課課長、２００１年（同１３年）同１工場工場長、０６年（同１８年）生産推進センターモノづくりＤＮＡ推進室次席部員などを歴任し、０７年５月から現職。この間、１９７７年（昭和５２年）の１級技能検定に合格したのをはじめ、２０００年（平成１２年）には愛知県優秀技能者表彰を受賞。また、０６年（同１８年）の秋には同年度の「現代の名工」に選ばれ、０８年度（同２０年度）秋の褒章では「黄綬褒章」も受章されています。</h4>
<p> 「知的技能」――。聞き覚えがあるようでいて、さほど一般化されていないという"四文字"が佐藤賢修さんから飛び出したのは、ものづくり論が佳境に差し掛かった時だった。この２０年余、生産現場のロボット化は飛躍的に進み、キーワードはその制御だという。「もちろん、手先の器用さや機械操作の技を磨くことは大前提です。でも、最近はそれに加えて幅広い知識や経験などを含めた知的技能も磨かなければ対応できません」。持論の"知的技能論"を展開。凜（りん）とした口調に自信が溢れる。ものづくり人生４０年目の春、佐藤さんは，幅広い経験や知識などを駆使してロボット制御の技に磨きをかける毎日だ。</p>
<h5>■配属先は粒揃いの技能者集団</h5>
<p> 高校時代の同期生と「ものづくりを志して」故郷・山形県米沢市を巣立ったのは、１９６９年（昭和４４年）の春。向った先は、東京を素通りして愛知県刈谷市の日本電装（現デンソー）に。「不安もありましたよ。愛知県は馴染みの薄いところでしたから。ただ、高校時代の同期生が一緒だったので心強かったですけど」。ものづくり人生は、不安と心強さとが同居した船出だった。</p>
<p> 入社１年目は、技能養成所でものづくりのイロハを学んだ。「寮暮らしでしたが、どこか学生時代の合宿生活のような雰囲気でしたね」。卒業後、配属されたのは、その後の人生を決定する専用機組立・調整業務を担当する職場だった。「仕事を覚えて何年か経ってくると、周囲の先輩から技能検定など資格試験の受験がそろそろだよと声がかかります。もちろん、合格して当たり前だという空気でしたね」。ある面では厳しい職場だが、粒揃いの技能者集団だった。</p>
<h5>■探究心に磨きをかける</h5>
<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_satou2.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_satou2.jpg" width="300" height="223" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 10px 20px;" /></span> 以来、佐藤さんは一貫して専用機組立・調整業務に携わった。これまでに手がけた専用機は２００余台に上る。例えば、長さ２５ｍｍ、幅寸法４ｍｍ、厚み０・２ｍｍのバイメタル材に０・８ｍｍの線材を位置精度プラスマイナス０・１ｍｍの溶接を要求された「メータバイメタル溶接機」、高速化と品質向上を同時に達成した「ラジエータコア組立機」、ロボットによる全自動組み付けを実現した「エアコン組立合理化ライン」など、量産体制を設備から軌道に乗せる新機軸を次々とものにした。</p>
<p> とりわけ、専用機組立・調整のエキスパートの道を歩み始めた入社４年目の１９７３年（昭和４８年）、電装部品の生産量が飛躍的に拡大した時期と重なり、佐藤さんはサイクルタイム２秒から１秒に短縮することが求められた「高速プラグＴＲ１号機」を担当した。この設備は各種の問題を抱えていて、とくにサイクルタイム短縮にはカム駆動の振動問題の解決が急務だった。それは品質向上には欠かせない条件だったからだ。「何とかしたい」。持ち前の探究心に"火"が点いた。</p>
<h5>■時には手作業の技も</h5>
<p> そんな中、浮かび上がった解決策は意外にも、ケガキとヤスリかけの手作業だった。「カム駆動の振動問題を解決するには、カム曲線の微妙な調整が必要だったのです。その調整にはケガキやヤスリかけの手作業の技が最適だったわけです」。このため、佐藤さんは自ら何度もケガキ、ヤスリかけを繰り返しながらカム曲線を微妙に調整。サイクルタイムの短縮と品質向上を同時に達成する専用機を見事、完成させたのだ。</p>
<p> 職場ではまた、基本的な金属加工の技能ばかりでなく、より幅広い技能や知識が要求された。機械工学、電気工学はもちろんのこと、時代の要請でもある組立工程のロボット化、電子化の進展などに伴い、専門分野以外の知識も求められたという。「若い頃から本屋に行って専門書を買い求めて知識を吸収してきましたね。時には、その知識を職場で実際に試して確認したこともあります」。地道な努力を積み重ねてきた頑張り屋だ。</p>
<h5>■現場でロボット活用技術を学ぶ</h5>
<p> それから３年後の７６年（同５１年）、デンソーで初めてのサイクルタイム１秒の多品質・大量生産ライン「メーターゲージ組立ライン」を担当した。このラインは１日に２０回の自動段取り変えを行い、８０種ものの製品を生産する本格的な自動化生産システムの１号ラインだった。しかし、ライン上で各種の問題が相次いだ。その都度、高速組立機から溶接機までの幅広い経験や蓄積してきた専門内・外の知識、設備調整技能などを駆使し、改良に次ぐ改良を重ねた。「その時は、設計者の意図は何かと考えて、ライン全体を見渡して解決策を模索しました」。その上で、独自のアイデアを加え、理想的な設備へと作り上げ、同社の専用機組立・調整業務の"第一人者"としての地歩を固めた。</p>
<p> 日本は世界でも有数の「ロボット大国」である。８０年代半ばには、電子制御のロボットが導入され、自動車部品製造分野でも"ロボット時代"が幕を開けた。「当初からロボットには関心があり、その可能性に着目していた」ことから、ロボット制御の調整技術を現場で学んでいく。そんな地道な努力が、９３年（平成５年）の「ロボットによる組み付け作業の設定方法」の考案へと結実した。</p>
<p> ８０年代半ばまでのロボット制御は、技能者のカンやコツに頼って位置合わせを行ない、その制御精度を確認していたという。しかし、それでは設備調整に時間がかかり、信頼性も低かった。このため、佐藤さんは座標の考え方を取り入れた制御方法を新たに考案、誰もが最適な位置を設定できるよう制御技術の標準化を図った。それが「ロボットによる組み付け作業の設定方法」の考案だ。その結果、ロボット制御工数時間は３０％も低減され、同時に標準化も完成させたこともあり、ロボットの制御技能が飛躍的に向上する成果も上げた。現在、佐藤さんの職場では７０％がロボット化されているという。</p>
<h5>■仕事の楽しさを覚えるのに１０年</h5>
<p> <span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_satou3.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_satou3.jpg" width="300" height="206" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 10px 20px;" /></span>もっとも、佐藤さんは「仕事が楽しくなるまでには入社から１０年くらいはかかりました」という。「ある時、職場の先輩から面白い仕事があるからやらないかと誘われた」のが、ものづくり人生が開花するきっかけだった。それが、チューブとチューブの間を等間隔に強制的に広げる１９７９年（昭和５４年）の「ＳＲラジェータコア組立機チューブ広げ」の考案だった。「与えられたチャンスは常に、大事にしたいと考えています」。そこには持ち前の前向きさと、各種の技能検定試験に合格し、実力を高めてきたことが後押ししていた。そして、何よりもお互いに技能を磨き合う技能集団の「職場の環境かな」ともいう。これらの要素が相乗効果となって、ものづくり人生が大きく飛躍していった。</p>
<p> 目下、力を注いでいるのは、技能の伝承を含めた後進の育成だ。「後輩には目標に向かってチャレンジしてもらいたいですね。そのためには一つの得意分野を持つことが必要です。その上で、さらに幅広い知識を学び、より良い製品を作るためにはどうすべきかを全体を見渡して考えていく技能者に成長してもらいたいですね」。</p>
<h5>■黄綬褒章を受章して初めて実家に連絡</h5>
<p> 思いは、海外にも及ぶ。９０年（平成２年）に同社の北米テネシー工場の設備立ち上げに参画した際、現地技能者の育成にも関わり、こと技能の伝承には国境を越えて内外無差別に取り組む熱心さだ。そればかりか、２００４年（同１６年）には技能五輪大会への出場選手を選抜する同社社内の競技大会の競技委員長を務め、選手の競技指導やメンタル面のサポートにも貢献するなど、熟練技能者の技能向上にも大きな役割を担った。だからこそ、いまも後進の育成には力が入る。</p>
<p> そんな功績が認められ、佐藤さんはこれまでに数多くの栄誉に浴している。中でも、昨年秋に受章した黄綬褒章は格別だったようだ。「あの時ばかりは、初めて故郷の実家に受章を連絡しました」。顔をぽっと赤く染めた。何か、去来するものがあったのか。「趣味はこれといったものはありません。強いて上げれば、スキーとドライブくらいです」。まさに、ものづくり一筋の人生だ。「さまざまのこと思い出す桜かな」（松尾芭蕉）。終わりのない技能磨きの旅が続いている。</p>]]>
        
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    <title>【第５回】　桂功氏（高精度金型製作工　デンソー）</title>
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    <published>2009-02-20T04:58:52Z</published>
    <updated>2009-04-01T04:55:38Z</updated>

    <summary>【05】　桂功氏（デンソー）</summary>
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        <name>JAPIA</name>
        
    </author>
    
    
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        <![CDATA[<h3>「"技能五輪"をバネに拍車がかかった金型製作」</h3>
<h4><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_katura1.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_katura1.jpg" width="150" height="150" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 15px 20px;" /></span>
第５回はデンソー生産技術開発部型企画室次席部員の桂功（かつら・いさお）さんです。桂さんは1950年（昭和25年）２月生まれの59歳で、デンソーの高精度金型製作の第一人者です。65年（同40年）に日本電装（現デンソー）技能者養成所に入り、工機部型一課仕上げ係長、型課課長、2005年（平成17年）生産技術開発部型工場工場長などを経て、09年（同21年）１月から現職。1969年（昭和44年）の技能五輪全国大会に出場後、後進の技能や精神面の指導にも尽力され、全国大会出場者は124人に上り、うち４人が世界一の栄冠に輝いています。<br />
これらの功績が高く評価され、０５年（同17年）には「高度熟練技能者」に認定されるとともに、同年の「現代の名工」にも選ばれています。<br />
　「少し頑固なくらいの性格の方がいいかも知れませんね」。桂功さんがふと、漏らした一言である。ある面では、ものづくり適性論ともいえる。40年近くに及ぶ金型製作を通じて磨き上げた人間洞察力か。「結構、ものづくりには体力や根気も必要ですから」。技能磨きにこだわりを持ち続ける桂さん。自らも出場したことのある技能五輪もその一つだ。ついには、国際大会に職種競技責任者として関わり、一競技の競技課題から競技場の設営運営まで全てを取り仕切った。ものづくりにせよ、イベントの実施せよ、スムーズに運ぶためにはきちんと段取りを考え、手順を踏んで積み上げていく、その能力の高さが遺憾なく発揮された瞬間だったろう。</h4>
<h5>■部門を超えた現場力の強さ</h5>
<p>　桂さんが、手がけた金型は2000個以上に上る。わけても、2001年（平成13年）のスタータの小型化をはじめ、その後も現在に至るまでインジェクタ（燃料噴射装置）の燃焼効率の向上、あるいはモノリス（ガソリン排気ガス浄化装置）の性能向上を、自身の１ミクロン精度の金型製作と、独自の着想力とを結集し、実現した。いずれも、世界に誇る自信作で、桂さんが高精度金型製作の"第一人者"といわれるゆえんだ。</p>
<p>　そこには桂さん自身の努力もさることながら、より良い製品づくりに向けて部門など垣根を超えて協力し合う社風も見逃せない。「常に、設計部門と生産部門とが協力して知恵を出し合ってものづくりをするという空気があります」。現場力の強さだ。改善や考案が活発に生まれるのも、そんな職場の空気からだ。</p>
<p>金型製作には時代の要請にビビットに対応するしなやかさが必要だといわれる。だから、品質や生産性の向上はもとより、コスト低減に繋がる改善の積み重ねなど、時代の流れを的確に読む分析力もキーワードの一つだ。車社会が本格化した1970年代。桂さんの技法開発や改善、考案も、それに歩調を合わせてピッチを上げた。</p>
<h5>■ワイヤー放電加工機に着目、新技法の開発も</h5>
<p>　その第１弾が77年（昭和52年）の型製作期間の短縮を実現した「多種少量生産対応の型製作技法」だ。70年代は、ユーザーニーズの多様化や環境規制の強化などを背景に新製品開発が相次ぎ、金型需要も飛躍的に拡大した。浮上したのは、型製作期間の短縮だった。その頃のコンビネーションメータなどプレス部品用金型は、パンチ・ダイプレートをそれぞれ板材から削り出していくのが主流だったという。</p>
<p>　桂さんが型製作期間短縮の実現に活用したのは、ワイヤー放電加工機。糸ノコで木を切るようにワイヤーと加工物である金属との間で放電させ、そのエネルギーで加工物を溶かして加工するというワイヤー放電加工機の機能に着目したもので、一枚の板材から２個の部品を共取りする技法を開発したのだ。この新技法は、型製作期間の大幅短縮と型費低減に繋がり、併せて安定した高品質の確保も可能になることから「多種少量生産型の画期的な製作技法だ」として、関係者らの間で関心が集まった。現在も、この技法は多くの生産現場で活用されているという。</p>
<h5>■半導体対応の精密型製作技能を確立</h5>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_katura3.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_katura3.jpg" width="300" height="198" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 0 20px;" /></span><p>　80年代は重厚長大から軽薄短小へと産業構造が大きく転換した時代だ。半導体が産業の"米"として定着、自動車産業にカーエレクトロニクス時代が到来した。半導体関連の高精度金型開発に熱い視線が注がれ、桂さんは精密型需要に応える目的から生産システム、生産量に適した金型開発に向けて調査、改良を繰り返した。その結果、最適な型材をはじめ、熱処理、型構造、部品形状、加工方法、組み立て調整要領などについて、２ｕｍ精度の金型製作技術を確立させたのが、84年（昭和59年）12月に実現した「半導体など精密型の製作技能」だった。これを機に、桂さんは数多くの高精度部品開発を担当、半導体の製品化を次々に実現していった。</p>
<p>　そんな桂さんがものづくりの世界に足を踏み入れたのは偶然といえば、偶然だった。中学生時代は愛知県東部の新城市で送っていた。「就職指導で学校に来られた刈谷の職業安定所の職員の方から日本電装という会社がありますが、どうですか」と勧められたのがきっかけだった。「初めて聞いた社名。何をする会社かも知らなかったですね、当時の日本電装は。ただ、勉強しながら働けるというのが魅力だったのかな」。</p>
<p>　生来の人柄なのか、ものづくりには懸命に取り組んだ。「私は決して器用ではなかったと思っています。養成所時代は先生に励まされながら一つずつ技能を学んできました。だから、覚えたことは今でも不思議に忘れませんね」。３年間の技能者養成所時代を淡々と語る口調に、それが現われていた。基礎技能は、その養成所の厳しい基礎訓練の繰り返しをくぐり抜けて体得した。</p>
<h5>■あこがれの技能五輪にも出場</h5>
<p>　卒業後に配属されたのは、金型製作部門だった。当時、金型製作は汎用機械で一時加工後、仕上げ工がヤスリなど手仕上げ工具を使って複雑な形状を高精度に作り上げていたという。桂さんも、その一員として貪欲に技能に磨きをかけた。そんな姿勢が会社の上司の目に止まった。1969年（昭和44年）の第７回技能五輪全国大会に向けて会社が準備を進めていたある日、その上司から「どうだ、受けてみないか」と桂さんに声がかかった。</p>
<p>　デンソーは青少年技能者の技能水準向上などを目的に、技能五輪の出場選手を社内から選抜し、特別強化訓練対象者として教育していた。桂さんが勧められたのは、その社内選抜試験の受験だった。「技能五輪に出場するのが目標の一つだった」桂さんは二つ返事で受験、見事合格した。特別強化訓練選手に選ばれた桂さんは、目標としていたその技能五輪全国大会の「金属抜き型職種」競技の愛知県代表として出場を果たした。だが、その時はそこまでだった。</p>
<h5>■レベルの高さにはねかえされて</h5>
<p>　「全く歯が立たなかったですね」。悔しさよりも、脱帽といった面持ちだ。「予想していた以上に全国の技能レベルは高く、とくに電機産業の選手は数段上を行っていました。とにかく強かったですよ。だから、電機産業の選手が持っている工具などを見て、その後見習ったものです」。翌年の70年（同45年）に、桂さんは技能者養成所の技能訓練指導員に就き、後進の指導に当たるなど、今度は教える立場から技能五輪に関わった。そして、現在も社内に設置されている「技能五輪分科会」を通じて力を尽くしている。ちなみに、70年以降の教え子から技能五輪全国大会の「抜き型職種」競技に出場した選手は延べ124人に上り、うち延べ64人が上位入賞を果たした。
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_katura2.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_katura2.jpg" width="300" height="316" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 0 20px;" /></span>
その中には11人の金メダリストが含まれている。また、技能五輪国際大会には６人が日本代表で出場。うち５人が入賞を果たし、その中の４人が世界一の金メダルに輝いたという。</p>
<p>　そればかりか、2007年（平成19年）11月に静岡県で開かれた「第39回技能五輪国際大会」では、自身の名声をさらに高めた。桂さんは同大会の職種競技責任者として関わり、参加国間の調整を含め「モールド競技」の競技課題から競技会場の設営運営まで全てを取り仕切るなど、手腕を発揮した。その活躍ぶりは国内外の技能五輪関係者から「公平透明な競技運営だった」と高く評価され、ものづくり人生に新たな一ページを加えたことも記憶に新しい。</p>
<h5>■技能は地道に磨く</h5>
<p>　現在、桂さんが勤務するデンソー阿久比製作所は1990年（同２年）、愛知県・知多半島のほぼ中央部に位置する工業団地の一角に設置された。晴れた日には伊勢湾の向こうに鈴鹿山系が望める高台にあり、正門に向かって右側下の下芳池北側には、幻の花「花かつみ」が大切に保護され、６月中旬から下旬にかけて鮮やかな紫の花を咲かせるという。</p>
<p>　阿久比町教育委員会が近くに立てた掲示板によると「昭和になって草木俳人竹内丁子が、どこかに「花かつみ」があるのではと探し歩き、ついに自生する一株を発見、地元の篤志家によって密かに保護された。87年（昭和62年）には花かつみ保存会が組織され、会員の自宅に移植し、株分けするなど努力を続け１株ずつ増やした」とある。「技能も、地道に伸ばしていくことが大切ですね」。桂さんが、にこっと笑った。「さざ波や立春の譜をひろげたり」（渡辺水巴）。桂さんの穏やかな表情が浮かんでいた。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>【第４回】　杉浦悦夫氏（数値制御金属工作機械工・アイシン精機）</title>
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    <published>2009-02-07T07:30:18Z</published>
    <updated>2009-11-06T07:07:54Z</updated>

    <summary>【04】　杉浦悦夫氏（アイシン精機）</summary>
    <author>
        <name>JAPIA</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.japia.or.jp/professional/">
        <![CDATA[
<h3>「苦労が知識を深め、喜びに変わる瞬間がいいですね」</h3>
<h4><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_.sugiura.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_.sugiura.jpg" width="150" height="150" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 0 20px;" /></span>
　第４回は、数値制御金属工作機械工として活躍されたアイシン精機の杉浦悦夫（すぎうら・えつお）さんです。杉浦さんは1946年（昭和21年）９月生まれの62歳。1962年に愛知工業（現アイシン精機）に入社。３年間の技能者養成所を経て、工機工場に配属され、28年間にわたり試作部品の切削加工を担当されました。その後、工務、工場全体のシステム改善、鋳造、ＣＡＤ・ＣＡＭなどの各部門を経験され、2006年10月からアイシン精機人材育成センターの「主任工師」として後進の育成に当たっています。この間、各種の技能検定を受験され、１級、特級の国家資格を取得する一方、03年度に「現代の名工」を受賞されています。また、05年度の春には仕事を通じて社会の模範になった人に贈られる黄綬褒章を受章されるなど、数多くの栄誉に浴している方です。</h4>
<h5>■「軽やかな」動機で愛知工業の技能者養成所へ</h5>
<p>　「妻からわがままな人といわれています」。のっけからさだまさしの「関白宣言」のような書き出しとなって、記事の先行きを訝る向きが多かろうか。あくまでもこれは「現代の名工」の素顔の一面を紹介したかったからだ。</p>
<p>　「軽やかな会話」と、確かな腕前の杉浦悦夫さんのものづくり人生の幕が上がったのは、「軽やかな」動機、現代風にいうと「まぁいいかぁ」の軽いノリだった。特別にものづくりが好きだったからでもなく、確固たる志があったわけでもなかった。以来、47年。今では「苦労が知識を深め、喜びに変わる瞬間がいいですね」と語る、いくたびの受賞歴を誇る技能者がここにいる。</p>
<p>　生家は農家だった。「子供の頃は物がない時代でした。親も必死に生きていましたから、遊ぶにしても道具はみんな自分で作るしかなかったですね。竹を取ってきては竹トンボや水鉄砲を作ったり、竹馬でも遊びましたね。どちらかというと、必要に迫られて遊び道具を工夫して作っていました。でも、当時はものづくりをやろうとは全く考えていなかったですね」。</p>
<p>　人生の進路を決める中学三年生の時である。「父は当初、大工さんか、左官屋さんになれといっていました。現に、弟は指し物の建具屋になりました」。ただ、自身ではあまり深く将来のことを考えてはいなかった。「学校の先生は地元の大企業なら、将来は安心だろうといっていましたね。私も給料が頂けて、工業高校程度の学科勉強もできます。その上に技能が身につく実習も受けることもできるというので、愛知工業（現アイシン精機）の技能者養成所にお世話になったという次第です」。</p>
<p>　その第１歩の選択でその後、高度化する自動車のトランスミッション部品の加工に要求される切削条件に対応する万能治具を考案したり、切削で精度を高めるためにミクロンの世界に分け入っていくなど、金属工作機械加工分野で次々と新機軸を打ち立てる技能者としての杉浦さんが出現するのだから、人生は面白い。</p>
<h5>■問題点を見つけることが私の役割</h5>
<p>　「やはり、技能を磨く原点になったのは養成所の３年間です」。養成所では技能の基礎を教え込まれ、例えばバイト（刃具）は丸棒から火づくりして、焼き入れし、刃を研いで作ったことも。現在も、道具を大切にするのはその経験からだ。</p>
<p>　その上で、意欲的な取り組みに弾みをつけたのは、「トヨタ生産方式」の考え方、見方を教育されたことが大きい。その印象は鮮やかに残る。職場の「班長」に就いた入社10年目の72年頃のことだ。「ある日、トヨタの大野（トヨタ自動車元副社長の大野耐一氏）さんから教育を受けた会社の重役が私たちの職場にお見えになり、現場を一目見ただけであれこれ無駄な動きを指摘されたのです。その洞察力には驚きました」。</p>
<p>　現在、製造業をはじめ、各種産業に普及する「トヨタ生産方式」は多種少量生産という市場制約から生まれた。当時、杉浦さんは班長になっていたとはいえ、職場の中で自分の役割を掴みかねていた。「確かに、部下に指示はしていたが、自分の中では生産ラインは計画通り生産できれば良いと思っていました。それがその重役の洞察力に触れたことで、全体の業務の流れ、現場の人の動きを見ることにより、問題点を見つけることが私の役割だとわかりましたね」。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_.sugiura2.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_.sugiura2.jpg" width="300" height="204" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 5px 0 0 20px;" /></span>
<p>　それから６年後の78年、カセットをヒントに「切削加工用万能治具」（写真参照）の考案へと一気に技能レベルを駆け上がっていく。同治具は現在も、現役で活躍中だ。当時、製品ごとの専用治具は切削加工時に製品の寸法、形状に合わせて月間180件を超える量を製作していた。ただ、生産終了後には廃棄処分され、原材料を含め、コスト、リードタイム面など、問題が山積していた。そこで、原価低減を中心に据えた「トヨタ生産方式」の考えをもとに、専用治具製作の不要化に設定した改善に取り組むことになった。 </p>
<h5>■常にテーマを持って物事を見る</h5>
<p>　最初に得られた発想は、位置決めピンの自在化だった。まず、第１段階でプレートは形状、大きさを問わない締め付けネジの蜂の巣化を施し、位置決めピンの自在化を試みた。結果は専用治具製作の不要化を実現した半面、重切削時に位置決めピンの固定強度に不安が出た。このため、第２段階は位置決めピンの固定強度を洗い出し、補強策を新たに講じることにした。</p>
<p>　そのヒントはひょんなところから浮かんだ。「ちょうど、同業他社の工場を見学する機会があり、それに参加したところ、その工場では構成部品を積み上げた治具を使っていました。で、ひらめいたのです。この積み上げ方式を位置決めピンの固定強度の補強に利用できないかと」。</p>
<p>　第２段階はプレートにカセット位置決め穴を追加し、カセットをピンで固定することで重切削に対応する補強を施した結果、どんぴしゃり固定強度の不安が解消した。大きな成果を上げた。治具製作費が従来比70％低減を達成する一方、試作加工時の段取り工数が低減でき、試作リードタイムの短縮にも貢献した。杉浦さんは「あの時は、常にテーマを持って物事を見ることの大切さを体験できましたね」と振り返る。</p>
<h5>■ミクロンの世界の精緻さに挑戦</h5>
<p>　１ミリの1000分の１というミクロンの世界。「モーターボートなどに使われている船外機を上げ降ろしさせるポンプの性能が、図面通りに（性能が）上がらなくて困ったことがありました」。85年頃だったという。杉浦さんがミクロンの世界に本格的に取り組むきっかけになった課題がこれだった。「得意先からは納品をせかされ、会社としては何としても性能を確保しなければならない状況にあったわけです」。２カ月余り眠れぬ日々が続いた。</p>
<p>　船外機を定められたスピードと消費電力で作動させるには、ポンプ部品のギヤーとケースの切削加工に精度がより厳格に要求され、「極微の粗さでも性能が左右する」ミクロンの世界の精緻さを象徴していた。このため、高精度な加工方法には研削、ラッピング、キサゲなどの工法があるが、そのコストを考えて加工の量産化に切り替えようとするのだから、容易ではなかった。</p>
<p>　しかも、設計部門でも性能が上がらない理由がわからなかったのだ。ただ、切削機械加工時にどうしてもつきまとう筋状の表面粗さと加工方向をどう克服するか、が最大のポイントだった。</p>
<p>　杉浦さんは設計部門と協力体制を作り、地道に一つ一つ問題を潰す作業を続け、量産化に向けた加工方法の道を探った。そんな苦心の末に、ギヤーとケースのミクロン単位のクリアランスを突き止め、加工の筋方向を見つけ出した結果、量産化を見事実現したのだ。</p>
<p>　杉浦さんは「ミクロンは目に見えませんが、私たちの身近にあります。そのミクロンの世界があるからこそ、道具ができ、機械が形成され、車、カメラ、メガネなどの製品が生まれています」と、生活に身近なミクロンの世界の一端を紹介する。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_.sugiura3.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_.sugiura3.jpg" width="300" height="300" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 0 20px;" /></span>
<p>　杉浦さんは現在、アイシン精機人材育成センターで主任工師の立場から次世代のものづくりを担う後進の育成に情熱を注ぐ毎日だ。「学園生を直接、指導するとともに、指導員の育成にも取り組んでいます。もちろん、自分が培ってきた技能の伝承は重点的に進めています。私は、ただ仕事を漫然とやるだけでは駄目と常にいっています。何のためにやるのか、目的をはっきりさせ、最良の手段を選ぶという技能を深めてもらいたいのです」。ものづくりに懸ける思いは貪欲だ。その上で、最後に「やはり、挑戦していく勇気です」と結んだ。</p>
<p>　杉浦さんのものづくり人生は、高浜虚子の「去年今年（こぞことし）貫く棒の如きもの」の句境と重なる。この句は1950年の暮れに詠んだ虚子の代表句の一つである。何事にも動じない力強さのある句だ。「最近は、仕事を終えて家に戻って一杯飲むのが楽しみです」。アルコールは相当いけそうだ。いまも、杉浦さんは公私を問わず"元気印"の現代の名工の一人だ。</p>
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    <title>【第３回】　都築數樹氏（機械加工・アイシン精機）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.japia.or.jp/professional/mk003.html" />
    <id>tag:www.japia.or.jp,2008:/professional//2.17</id>

    <published>2008-11-12T02:40:16Z</published>
    <updated>2009-04-01T04:55:01Z</updated>

    <summary>【03】　都築數樹氏（アイシン精機）</summary>
    <author>
        <name>JAPIA</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.japia.or.jp/professional/">
        <![CDATA[<h3><好奇心を旺盛に><失敗はしっかり後始末><技能者は多能工にも挑戦すべし></h3>
<h4><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_tuduki.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_tuduki.jpg" width="150" height="150" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>第３回は、アイシン精機の都築數樹（つづき・かずき）さんです。1946年1月生まれの62歳、61年に愛知工業（現アイシン精機）技能養成所に入所。64年に試作課に配属され、開発試作品の旋盤加工などを20年余り担当。02年から生産全般を統括する一方、社内に「技能伝承塾」を開設し、年代物の車を新品同様に復元する「レストア」活動などにも取り組み、若手技能者への技能の伝承に尽力されました。これらにより、01年に愛知県から「優秀技能者章」、04年度には「現代の名工」を受賞されるなど、数々の栄誉に輝いた方です。現在は、アイシン・コラボヒューマンソリューション事業部ものづくり人材支援センターに勤務されています。</h4>
<h5>■「骨身にしみ」るようにして技能を習得</h5>
<p>都築數樹さんの出身地は、俳優の故・渥美清さんが「風天」の俳号で「お遍路が一列に行く虹の中」と詠んだ、四国は香川県善通寺市。その故郷を47年前の春、「ものづくりの希望に燃えて」後にした。その５年前の昭和36年度版「経済白書」は、「もはや戦後は終わった」と書き、日本が高度経済成長へと加速した時代だった。「家族をはじめ、ご近所の皆さんの見送りが凄くて、これでは簡単に故郷に帰るわけにはいかないと思いましたよ」。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_tuduki2.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_tuduki2.jpg" width="260" height="210" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>
<p>愛知工業（現アイシン精機）技能者養成所第１期生の都築さん。同期入社約200人の中から選抜試験に合格した20人のうちの１人だ。</p>
<p>１期生は愛知県を中心に全国から集まっていた。同社は07年度連結売上高で約２兆7000億円の大企業だが、当時は約60億円の規模だったという。養成教育は座学、実習を通じて基本技能を教え込まれ、旋盤、フライス盤、研磨、ヤスリ掛けから鋳造、木型まで多岐に渡った。２年生からは機械科を専攻、旋盤、フライス盤などの実習に明け暮れた。</p>
<p>中でも、実習に使う当時の旋盤はメタル軸受けで、最高回転が800回転／分ほどしか回らなかったという。「少し切り込みを多く取ると、切削抵抗でクラッチが滑り、主軸が止まってしまう旋盤でしたね」と、都築さんは懐かしそうに往時を振り返った。</p>
<p>その頃は、まだ超硬バイトは普及していなく、もっぱらハイス（高速度鋼）バイト。そのため、加工時にはしばしば「ビビリ」（振動）現象が発生した。「そういう時には、先生から回転を落とせ、刃先アールを小さくせよ、切り込みを落とせなどと、基本中の基本を教え込まれたものです」。また、ノミで木を削るようにタガネという刃物で鉄を削るハツリ作業の実習では、左手に持ったタガネの頭を思い切りハンマーで叩き、スカ（外す）を食う度に手を腫らしたり血を流したりと、文字通り「骨身にしみ」るようにして技能を身につけてきた。</p>
<p>そんな都築さんも「入社５年目くらいだったかな、＜故有って＞会社を辞めたくなった時期があり、休暇をとって故郷に帰り、働き口を探したこともありましたが、待遇に大きな差があって、もう一度会社に戻ってきました」という。ものづくりを極め、現代の名工に選ばれた都築さんにも、挫折しかかった時も。</p>
<p>「その時は恥ずかしながら職場に戻り、直属の上司に頭を下げて、一から出直しました。それ以降は迷ったことはありません」。以来、「お客さんに喜ばれる製品をいかに素早く安価に、そして安全に作るかを心がけてきました」と語る、ものづくり"一直線人生"には一点の曇りもなかった。</p>
<h5>■“からくりの原理”で省エネを実現</h5>
<p>それだけに、都築さんのものづくりへの思い入れは強い。とりわけ、基本技能の習得を重視する。「１つは刃物を研ぐ技能。２つは加工条件を決める技能。３つはワークを固定する技能です。この３つの技能がものづくりには欠かせない必須条件です」。その上で、都築さんは持論の＜好奇心を旺盛に＞＜失敗はしっかり後始末（反省）＞＜技能者は多能工にも挑戦すべし＞の、こだわり"３カ条"を展開する。</p>
<p>「好奇心を旺盛に」持つ、その現れが「古きを温ね、新しきを知る」を実践することにつながる。そのネタ探しの発想は縦横無尽だ。</p>
<p>たとえば、江戸時代に一大ブームを巻き起こしたという「からくり人形」。内部に収納されたゼンマイなどを動力源に、歯車などを活用して複雑な動作をする人形をご覧になったことがある方も多いはずだ。その「からくり」人形を全国で現存する約３分の２を保有しているのが愛知県だ。</p>
<p>そのせいか同社でも生産現場などを中心に「からくり」研究が盛んに行われているという。「からくり」の仕掛け、特に動力源として重力を使ったりする仕掛けがラインの省エネ、生産効率の向上に向けた改善に活用できないかという着眼も、そんな土地柄から生まれたのだろう。都築さんは「動力を使わないで作業するにはどうしたら良いかと考えていたら、自然と"からくりの原理"が浮かんできたわけです」と話す。</p>
<p>数多い成果の中から２つを都築さんは熱を込めて作動原理から紹介してくれた。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_tuduki5.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_tuduki5.jpg" width="400" height="350" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>
<p>一つは04年にメリーゴーランドをヒントに、製品の自重だけで動くコンパクトな冷却装置を開発し、歩行低減や省エネを実現したという「１動作２作業のからくり君」（ローター冷却台）。</p>
<p>その原理は＜樹脂成形後のワークを受け台に投入すると、受け台下のローラーがワークの重量で傾斜カムを駆け下りようとする＞＜次に回転ストッパで止まっている冷却されたワークを取ると、ワーク４個分の重量が傾斜カムを駆け下りようとする回転運動に変換され＞＜カラの受け台は登りの傾斜カムを駆け上がり、次の回転ストッパに当たって止まる＞という仕組みだ。</p>
<p>改善前のローター冷却は、ロボット・工場エアーなどのアクチュエーターで行っていた。しかし、長さが３メートル強と冷却装置が大きく、作業移動に時間がかかったほか、コンベアでワーク搬送するため、モーターを動かす動力源も必要だった。</p>
<div style="text-align: center;"><table border="0" cellpadding="0" cellspacing="0" width="300">
  <tr>
   <td><img src="spacer.gif" width="150" height="1" border="0" alt="" /></td>
   <td><img src="spacer.gif" width="150" height="1" border="0" alt="" /></td>
   <td><img src="spacer.gif" width="1" height="1" border="0" alt="" /></td>
  </tr>
  <tr>
   <td colspan="2"><img name="karakuri1" src="karakuri1.jpg" width="300" height="308" border="0" id="karakuri1" alt="" /></td>
   <td><img src="spacer.gif" width="1" height="308" border="0" alt="" /></td>
  </tr>
  <tr>
   <td><a href="http://www.japia.or.jp/professional/MOV04796.MPG"><img name="karakuri2" src="karakuri2.jpg" width="150" height="32" border="0" id="karakuri2" alt="" /></a></td>
   <td><a href="http://www.japia.or.jp/professional/MOV04795.MPG"><img name="karakuri3" src="karakuri3.jpg" width="150" height="32" border="0" id="karakuri3" alt="" /></a></td>
   <td><img src="spacer.gif" width="1" height="32" border="0" alt="" /></td>
  </tr>
</table></div>
<p>そこで、多種少量生産に対応するための装置のコンパクト化、工程飛びのない先入れ先出し式、自動搬送などを着眼点に、改善策を具体化した結果、樹脂成形工程と組み立て工程とが隣接し、２秒／サイクルに歩行時間を短縮した上に、動力源も必要がなくなり、狙い通りの成果を上げた。</p>
<p>もう一つは、日本プラントメンテナンス協会主催のＴＰＭ（トータル・プロダクティブ・メンテナンス＝全員参加生産保全の略）ブラザで最優秀賞を05年に受賞した「自動圧入からくり君」。正式には「Ｓ／Ｃのオイルシール＆ベアリング圧入工数の低減（からくり）」の考案という＝動画を参照。</p>
<p>この改善の要諦は、改善前に工数0.06Ｈ／台だったのを0.01Ｈ／台に時間を短縮し、年間では180Ｈ／年の成果を上げ、西尾工場補給Ｓ／Ｃ（スーパーチャージャー）の組み付けにも水平展開されるなど、社内外から高い評価を得た自信作の１つでもある。</p>
<h5>■技能継承の危機に若手技能者の育成に乗り出す</h5>
<p>これらのからくりの考案もさることながら、47年間のものづくり人生で最も印象に残っているのは、70年頃に図面化されたエンジンの冷却機能を持つ「ファンカップリング」のラビリンス部の旋削加工だという。シリコンオイルを媒体とする流体継手の重要部位である幅0.6、深さ2.4のラビリンス部の旋削加工のことだ。薄肉、深溝のため、バイトの刃先形状に制約が大きく、しばしばビビリが発生し、面精度に問題が出たほか、切り粉の詰まりでバイトが折れたり、ラビリンス部の肉が欠けるなど、さまざまな難題に直面していた。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_tuduki3.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_tuduki3.jpg" width="400" height="278" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 0 20px;" /></span>
<p>都築さんはそこで、上司に指導を仰ぎながら、試行錯誤を繰り返した結果、バイトの切り刃角、逃げ角などを工夫したり、新たに完成バイトと組み合わせた一体バイトも考案した。加えて、切り粉を掃き出すエアーノズルを新たに考え、設計要求に応えた。「あの頃の設計者は、自分が設計した部品が果たして作れるか否か、一嬉一憂しながら設計していましたね。だから、設計者は生産現場に足を運び、私たち生産現場の人間と常に密着して自分の目で確かめ、設計の完成度を高めていました」と、70年代の"クルマづくり"の一端を披露する都築さん。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_tuduki4.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_tuduki4.jpg" width="400" height="264" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 0 20px;" /></span>
<p>団塊世代が大量退職する“07問題”を控えた02年、都築さんは「このままでは技能の伝承が危うくなってしまう。なんとかしなければ」という危機感を持った。狙いは勿論「熟練技能を若手に伝承しよう」だ。職場に「技能伝承塾・治具工房」を開設するなど、若手技能者の育成に乗り出した。「鉄は熱いうちに打てと思って新卒者を塾生に据えました」。</p>
<p>狙いは無論「熟練技能を若手に伝承しよう」だ。ベテランを指導者に、治具づくりを通して刃物の手研ぎをはじめ、機械加工・ヤスリ仕上げなど、幅広い職種をこなせる若手技能者の育成を行うというこの発案は、工場で２年間かけて体系的に進める多能工化教育カリキュラムとして定着している。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>【第２回】　塚本高敏氏（機械加工・アイシン精機）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.japia.or.jp/professional/mk002.html" />
    <id>tag:www.japia.or.jp,2008:/professional//2.16</id>

    <published>2008-10-22T02:52:06Z</published>
    <updated>2008-11-12T06:44:12Z</updated>

    <summary>【02】　塚本高敏氏（アイシン精機）</summary>
    <author>
        <name>JAPIA</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.japia.or.jp/professional/">
        <![CDATA[<h3>好みとて老いを敬ふふかし藷</h3>
<h4><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_tukamoto.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_tukamoto.jpg" width="150" height="150" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>第２回は、アイシン開発新規事業準備室室長の塚本高敏（つかもと・たかとし）さんです。1948年12月生まれの59歳。塚本さんは64年に愛知工業（現アイシン精機）技能者養成所に入所、67年から工機工場を中心に機械加工に従事。以来、小物部品から金型まで幅広い機械加工の改善に取り組み、新製品のものづくりなどを担当してこられました。2002年にアイシン精機本社さわやかふれあいセンター副センター長に就き、2008年１月からアイシン開発に出向、現職。この間、特級技能士をはじめ、各種資格を取得される一方、社内外の若手技術者の育成にも力を注ぎ、2005年度には「現代の名工」を受賞するなど、多彩な経歴の持ち主です。その塚本さんからは２回にわたってお話を伺いましたが、根っからの"ものづくり大好き人間"のようにお見受けしました。</h4>
<h5>■「なにか技術を身につけろ」の父親の言葉で技術者に</h5>
<p>地形の模型やカセットテープ、さらに患者の症状に応じて薬、器具などを詰め込んだ医者の往診カバンなど、さまざまな身近なものをヒントに治具、装置を改善、考案したり、個々の固有技能を集めた「匠の作品」づくりを立ち上げたりと、ものづくりの現場に数々の業績を残した塚本高敏さん。2005年度にはそれらの功績が高く評価され、「現代の名工」を受賞、ものづくり人生に花を添えた。どこか、米大リーグで数多くの記録を更新し続けているイチロー選手に似た求道者的の雰囲気もある塚本さん。</p>
<p>塚本さんがものづくりの世界に進んだのは戦前、豊田自動織機で旋盤を繰っていた父親の影響が大きかった。「父は現在、農業をしていますが、若い頃は特殊技能を持った旋盤工だったそうです」。塚本さんの父上はさきの大戦で応召したものの、特に高い「特殊技能」を持っていたことで現役を解かれ、帰国したという。その父親から「何か、技術を身につけろ」と勧められ、愛知工業（現アイシン精機）の技能者養成所の門を叩いた。“15の春”の決断だった。64年の東京オリンピックの年だ。</p>
<p>この年、技能者養成所には同期生26人が入所した。３年間、一般教養の座学をはじめ、金属加工の基本知識、技能など、ものづくりのイロハをみっちり学んだ。先生は大学の工学部を卒業した会社の先輩と現場の監督者ら。「厳しかったですよ。しかし、ものづくりの魅力を教わったことが良かったですね。それは日々変わる生産現場のものづくりの楽しさです」。その中には、塚本さんには「人の倍は努力を重ねた」という自負もある。</p>
<p>養成所を卒業後、配属されたのは工機工場の旋盤部門。提案活動が盛んな職場だった。目標を「旋盤を自分の思い通りに使いこなす」ことに置いた。刃具はチップ（刃先）が折れるまで使い込み、自分を高めるための対策も考えたという。そのうえで「同じ失敗を繰り返すな」と肝に命じた。もちろん、失敗や苦い経験も１つや２つ。塚本さんが月給１万5000円くらいの頃に材料代が１万円もかかる製品に不良品を出したことがある。若かったとはいえ、職場にはいられないほどの恥ずかしさに襲われたという。長いものづくり人生の中で忘れられないことの１つようだ。「仕事をする前に集中する」。それが、その時の教訓だ。
<h5>■自信作・両面加工が可能な「多工程切削用治具」</h5>
<div style="text-align: right;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="zu_tukamoto.gif" src="http://www.japia.or.jp/professional/zu_tukamoto.gif" width="260" height="400" class="mt-image-none" style="" /></span></div>
<p>中でも、1993年に考案した「自動車ブレーキ部品の多工程切削加工用治具の考案」は自信作の１つ。ヒントは「カセットテープは反転するだけで両面の曲が聴ける」という身近なところからだった。それをヒントに試行錯誤を繰り返しながら、１つの治具を反転するだけで表裏の両面加工が可能な「多工程切削用治具」（図１を参照）を考案した。塚本さんは「１回の工程で全てをやってしまうのがミソです」と説明する。</p>
<p>１台の車には前後左右に合わせて４個のブレーキが装着され、ブレーキは油圧によって作動するシリンダーを内蔵する。シリンダーの生産は多品種少量の典型で、93年当時、一種類月平均300個だった。その加工過程で、ＮＣ（数値制御）旋盤の工程がネックとなっていた。
　当時（図２を参照）、第１工程（表）をイケール治具で加工し、第１ロット加工終了後に第２工程（裏）の段取りを行っていたが、アーバー治具で反対側を加工する段取り替え工数と部品脱着工数とに無駄が発生していた。この無駄を解消したのが、塚本さんが考案した「多工程切削加工用治具」だった。</p>
<p>ただ、難点もあった。この治具には歪みによる精度確保が不可能とされていたからだ。そこで、治具製造時に焼き入れ、歪み取り工程を加えることで、外周真円度0.02（従来0.1）、真直度0.01（同0.07）までに治具精度を向上させた。その結果、段取り工数１回当たり30分、部品脱着工数１個当たり0.2分低減するなど、飛躍的な改善効果を上げたのだ。</p>
<h5>■若者への技能伝承を目的に「匠の作品」づくり</h5>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_tukamoto2.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_tukamoto2.jpg" width="300" height="363" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>
<p>その一方で、技術や技能の伝承にも力を注いだ。若者への技能の伝承を目的にした「匠の作品」づくりも、その一つだ。年代物の車をはじめ、灯篭、兜など、日本古来の物をテーマに25点取り上げ、それぞれスケッチと必要技能を洗い出し、歪みなどを予測した上で同等の物の設計に着手したり、作り込む過程には若者に参加を呼びかけ、自らもＮＣ（数値制御）旋盤のプログラムづくりなど、精密切削の技能伝承に力を注いだ。とりわけ、ハーレーダビットソン、Ｆ１レーシングカーなどのレストア（復元）活動は、若手技術者を交えて念入りに復元作業を進めた。作品の制作は85年～97年までの間、年２回のペースで行われ切削加工、きさげ、ヤスリ仕上げなどの技能を結集して完成させた。
</p>
<p>これら「匠の作品」は、愛知技能プラザに展示され、来場者らに同社の技術レベルの高さを知らしめることになった。「いずれにしても、生産現場の技能や技術がしっかりしていなければ、良い製品は作れません」。塚本さんは2005年度に「現代の名工」を受賞した際に、関係者に寄せた１文でも、ものづくりの基本に触れることを忘れない。</p>
<p>「技能とは、技術者がやりたいと思う夢（製品）を、具体的な形に作り上げる技（能力）で、常に挑戦する心と失敗してもやり抜く根性が必要です」。</p>
<h5>■障害者の国家技能検定取得を支援</h5>
<p>そればかりか、少年少女にものづくりの楽しさを伝えたり、障害者の働きがい、生きがいに繋げようと、積極的に国家技能検定取得も支援した。2002年～2005年までに11人の技能士を障害者から誕生させた。「技能士の資格を取って、目を輝かせて喜ぶ障害者の方々の姿は印象的でした」。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_tukamoto3.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_tukamoto3.jpg" width="300" height="299" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>
<p>「ものづくりの現場を離れて、現在は老人施設づくりを担当しています」。今年１月にアイシン精機から関連会社アイシン開発に出向、差し出された名刺には「新規事業準備室室長」と書かれてあった。アイシン開発が来年３月に大府市内に開業する住居型有料老人施設の責任者の立場にある。塚本さんは「先日も、ヘルパーの講習を受けてきて、お年寄りの介助を学んでいます。でも、難しいですね」。</p>
<p>今は介護の分野に取り組んでいるのも、「目を輝かせて喜ぶ人」へのそんな意識があったからか。ただ、ものづくりとはちょっと勝手が違うと、塚本さんは照れ笑いを浮かべた。とはいえ、「無駄を排除するトヨタの生産方式ではありませんが、スタッフと一緒になって日々改善を進めていきます。無駄を排除することは、働く人も、サービスを受ける人も、ともにそのメリットを享受できます。そこから生まれる余裕をサービスの向上に繋げていければと思っています」。</p>
<p>在宅であれ、施設であれ、さまざまな老いを見守り、支える介護の世界。年々、お年寄りへのケアには手がかかり、キメの細かいサービスが求められている介護の現場に、ものづくりの根本を見つめてきた視点をどう活かすか。江戸時代中期の山形・米沢藩主、上杉鷹山の「成せばなる、成さねばならぬ何事も。ならぬは人の成さぬなりけり」が、座右の銘の塚本さん。「長生きしてよかったと言える人生をご一緒に」。利用者に向けた施設運営のキーワードを中心に、早くも青写真を描き出している。</p>
<p>「好みとて　老いを敬ふ　ふかし藷」（水原秋桜子）</p>
<p>お年寄りを囲んでふかし藷を頬張る、ほのぼのとした情景が伝わる句である。</p>
<p>塚本さんへの期待は大きい。</p>]]>
        
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    <title>【第１回】　大橋正明氏（機械加工・アイシン精機）</title>
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    <published>2008-09-15T23:58:38Z</published>
    <updated>2008-10-22T03:46:18Z</updated>

    <summary>【01】　大橋正明氏（アイシン精機）</summary>
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        <![CDATA[<h3>秋立つや一巻の書の読み残し</h3>

<h4><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_oohashi.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_oohashi.jpg" width="180" height="180" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>第１回は、アイシン精機試作工場試作部生産グループ加工チームチームリーダー、大橋正明（おおはし・まさあき）さんにご登場願いました。大橋さんは１９５２年７月生まれ、５６歳。１９７１年アイシン精機技術管理部試作課入社、７１－２０００年自動車試作部品の機械加工一筋に担当してこられ、加工の基本知識、技能などを取得されました。また、２０００年からは改善保全、加工チームチームリーダーとして現場管理、改善指導で活躍されています。１９８１年複合技能士章、１９９６年愛知県優秀技能者章、９７年愛知県技能士連合会長賞、２００７年高度熟練技能者認定証などを授与されたという経歴の持ち主です。</h4>
<h5>■不器用ですから</h5>
<p>「不器用ですから。運が良かっただけです」。機械加工の分野で数々の新機軸を打ち立て、平成１９年度には卓越した技能が認められ、「現代の名工」に名を連ねた大橋さんとのやりとりは、まるで俳優、高倉健さんがどこかで言っていそうな一言から始まった。</p>
<p>機械加工一筋に今年で３８年。いまも、女子マラソンで活躍した浅井えり子さんの「ゆっくり走れば速くなる」をヒントに、自作した「じっくり取り組めば腕も上がる」を座右の銘に、モノづくりの"技"を磨く毎日だ。</p>
<h5>■すうっと浮かんできます</h5>
<p>現役バリバリの大橋さん。「皆から笑われますが、ものづくりに夢中になってくると、周りが見えなくなります。そのうちに、匂ってくるというか、さわやかな風が吹いてきて、ヒントがすうっと浮かんできます」。学生時代に陸上競技の中距離ランナーであり、社会人になっても暫くは走っていた大橋さんは、現在は刈谷市陸上連盟委員も務める"陸上競技通"だ。改善や考案のヒントの原点を尋ねたら、屈託なく笑って答えた。「陸上の長距離やマラソン選手が言いますね。レース中の苦しい時期を乗り切ると、逆に走るのが楽しくなってくるって。セカンドウィンドと言います。そんな感じです」。一瞬、メタボを心配する人間には理解できない境地かもなどと余計なことを考えた。</p>
<h5>■きっかけは５段変速自転車</h5>
<p>その大橋さんが機械加工の道に進んだ端緒は、中学生時代に欲しかった５段変速自転車だったと語る。なんとも世俗的で判り易い。とは言え、ご自身で自転車を作ったことではない。その頃、「大橋君」は新聞配達のアルバイトをしていた。巷には、山田太郎の「新聞少年」という流行歌が流れていた時代だ。アルバイトは自前の自転車を持ち込んだ新聞配達だ。「同級生の一人が、５段変速自転車に乗って同じ新聞配達のアルバイトをしていた。私はまだ普通の自転車。その同級生の自転車のスピードが早くて、欲しくてたまらなかった」。そこで、父親に「５段変速自転車を買ってくれ」と頼んだら、「家の仕事を手伝ったら買ってやる」と言われた。</p>
<h5>■旋盤の魅力にひかれて</h5>
<p>当時、５段変速自転車は５万円だった。「高卒後、私がアイシン精機に入社した時の初任級よりやや高かった」高価な自転車だ。父親は自宅でプレス型をつくる金属加工業を営んでいた。その工場で初めて出合ったのが旋盤だった。父親に簡単な操作を教わり、旋盤を動かした。それから「自分の思い通りに物が作れる」旋盤の魅力にひかれ、のめり込んでいった。新聞配達、５段変速自転車、そして旋盤との出合いを経て、大橋さんのモノづくり人生がスタートしたのである。</p>
<h5>■迷わず「旋盤をやらせて下さい」</h5>
<p>アイシン精機へ入社した経緯もふるっている。受験したのは高校三年生の２月。卒業を目前にしてのことである。当然のことながら、就職先は内定していた。募集は若干名。ところが、「いろいろ考えた」上で就職志望先を同社に変更。面接試験の担当者から「希望の職種は」と問われ、迷わず「旋盤をやらせて下さい」と答えたという。このやりとりは、論語風に言うと「吾十有八志旋盤（吾１８歳にして旋盤を志す）」の趣であろうか。「とにかく旋盤がやりたかったのです」と、大橋さんはいう。</p>
<h5>■旋盤を壊したことも</h5>
<p>その「旋盤大好き」の大橋さんがモノづくりにより前向きに取り組むようになるのには、７年はかかった。きっかけは、ひと通り技術を覚え、「職業訓練指導員免許」を取得した２年後に受験した普通旋盤１級試験。「ちょっと自信過剰な時期だった」という。だから、試験の準備を始めたのが、試験日の前日。その練習で大失態を演じた。いまも、その記憶が生々しく蘇ってくるというのだ。ネジ切り練習で３００回転/分のところを、ねじ切りレバーと送りレバーを間違え、１９００回転/分で操作、旋盤を壊してしまったことだ。</p>
<h5>■資格試験に挑戦</h5>
<p>もちろん、前日に大失態したおかげもあって、当日の試験には合格した。「合格はギリギリだったんじゃないかな。いつの間にか、職場では先輩格に押し上げられていて、知らず知らずのうちに仕事をなめていたのかもしれません」。以来、それを教訓に、機械加工の工程設計から段取り、加工、測定までの技術を体系的に学び、機械検査１級、NC旋盤１級などの資格を次々に取得した。それがその後、新製品の試作品づくりをはじめ、工法や生産改善などにも活かされ、機械加工の全体のレベルアップに大きな役割を果たしていく。</p>
<h5>■科学技術庁長官を受賞</h5>
<p>中でも、真骨頂が１９９４年度の科学技術庁長官賞に輝いた「ピストン端面超仕上げ加工方法の考案」。ヒントは、陸上競技場のグランドを整備するローラーの原理。製品要求は、表面粗さの端面精度が０・８Z。その当時は、例え、ダイヤモンドバイト使用の最大条件で旋盤加工したとしても、バラつき不良３７％、端面精度１・０Zというのが限界だった。その「指先で感じられる微かな」０・２Zの精度差をどう克服し、不良ゼロにするか。</p>
<h5>■ヒントは学生時代の部活動</h5>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="zu1-1.gif" src="http://www.japia.or.jp/professional/zu1-1.gif" width="260" height="200" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>
<p>大橋さんに「匂って」きた着想が、ローラーの方が良くはないか？というもの。「学生時代に陸上の中距離選手をやっていて、いつもグランドを平らにするのにローラーを使っていましたから。それを応用できないかと考えたのです」。旋盤を利用したバイトによる切削加工を捨て、ローラーの原理へと発想を転換した。「つまり、粗さを削ることによって平らにするのではなく、粗さを押しつぶすことで精度要求に応えることへと転換したわけですね」。ローラーをかけて端面の粗さをつぶし、平らにする根っこ部分は学生時代の部活動にあったのだ。具体的にはローラーの代わりに豆粒ほどの鋼球を作り、それを軸に掌に収まる「ローラーホルダー」（図参照）を自前で製作、新工法として完成させたのだ。</p>
<h5>■的中した成果</h5>
<p>狙いは的中した。熟練作業者でなくとも誰が加工しても、一定の品質を維持し、不良率３７％からゼロに、さらに課題の端面精度は０・３Zを達成する一方、切削のスジ目なしも実現した。社内外から「高精度、短納期試作に成果あり」と高い評価を得たのも、いうまでもない。「でも、最近はNC（数値制御）旋盤でも、この程度の加工はできるようになりました」。改めて、加速する技術革新の波に、大橋さんは舌を巻く。</p>
<h5>■教えてもらった技術や技能は吐き出す</h5>
<p>モノづくりへのこだわりは人一倍強い。後輩にも"一家言"がある。「私は他人の技術を盗んで学んできたわけではありません。やはり、上司や先輩から教わって技術を磨いてきました」。だから、本業の傍ら、技術や技能の伝承に力を注ぐ。「教わって学んだものは後輩に吐き出さなければ」。後進の指導、育成には全力投球中だ。「全体の技能レベルが上がらないと、決して良い製品や仕事はできません。後輩の皆さんには、学んだものにさらにプラスアルファーして後輩に伝えていく、そんな幅の広い人間になって欲しいですね」。</p>
<h5>■マンツーマンで学んだ新人時代</h5>
<p>自身も、入社早々の１か月間、１０年先輩から刃具づくりをマンツーマンで教わった経験があるというから、なおさらだ。「その先輩はわが道を行くタイプの人で、他人の世話を焼くのは嫌いな方でした。もちろん、仕事はできる方です。それがどういうわけか、私には親身になって教えてくれまして。刃具の造り方、研ぎ方です」。若き日を懐かしそうに振り返る。その先輩はそれから２年後、「自分で物を作りたい」と言って、職場を去った。暫くして、人づてに「瓦職人になった」と聞かされた。愛知県三河地方は、古くから「三州瓦」で有名な土地柄だ。</p>
<h5>■ものづくりに王道なし</h5>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pht_oohashi2.jpg" src="http://www.japia.or.jp/professional/pht_oohashi2.jpg" width="300" height="393" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>
<p>「触って・磨いて・あとをつくる」。大橋さんのモノづくりの歩みだ。まず、「触ってみる」。旋盤など設備に触る、加工工程を作る、刃具を研ぐ、治具を作るなど、基本技能に触る。次に「磨きをかける」。他の人の仕事を見て自分より良い仕事がしてあれば当然悔しい、その人のその仕事に負けたくないという気持ちを持つ。その上で「さわやかな風、匂い」を感じるまで自分を磨く。そして「あとをつくる」。治具工房の開設、刃具工房の立ち上げなど、跡（形）をつくる。工場内で特級技能士の育成指導、技能グランプリ挑戦者指導など、後（人）をつくる、の順だ。</p>
<h5>■まだ発展途上です</h5>
<p>「まだまだ学ぶことが沢山あります。ドリル１本とってもさまざまです。知らないことが多いです」。大橋さんの探究心は衰えを知らない。そう言えば、夏目漱石が弟子の芥川龍之介に送った手紙にしたためた有名な句がある。「秋立つや一巻の書の読み残し」。俳人、大高翔さんは自著「漱石さんの俳句」の中で、「オレはこれからもまだまだやるぞ、という漱石さんの決意が込められている」と評している。そんな句境にも通じそうな大橋さんのものづくり人生である。（了）</p>]]>
        
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