【第4回】 杉浦悦夫氏(数値制御金属工作機械工・アイシン精機)
「苦労が知識を深め、喜びに変わる瞬間がいいですね」
第4回は、数値制御金属工作機械工として活躍されたアイシン精機の杉浦悦夫(すぎうら・えつお)さんです。杉浦さんは1946年(昭和21年)9月生まれの62歳。1962年に愛知工業(現アイシン精機)に入社。3年間の技能者養成所を経て、工機工場に配属され、28年間にわたり試作部品の切削加工を担当されました。その後、工務、工場全体のシステム改善、鋳造、CAD・CAMなどの各部門を経験され、2006年10月からアイシン精機人材育成センターの「主任工師」として後進の育成に当たっています。この間、各種の技能検定を受験され、1級、特級の国家資格を取得する一方、03年度に「現代の名工」を受賞されています。また、05年度の春には仕事を通じて社会の模範になった人に贈られる黄綬褒章を受章されるなど、数多くの栄誉に浴している方です。
■「軽やかな」動機で愛知工業の技能者養成所へ
「妻からわがままな人といわれています」。のっけからさだまさしの「関白宣言」のような書き出しとなって、記事の先行きを訝る向きが多かろうか。あくまでもこれは「現代の名工」の素顔の一面を紹介したかったからだ。
「軽やかな会話」と、確かな腕前の杉浦悦夫さんのものづくり人生の幕が上がったのは、「軽やかな」動機、現代風にいうと「まぁいいかぁ」の軽いノリだった。特別にものづくりが好きだったからでもなく、確固たる志があったわけでもなかった。以来、47年。今では「苦労が知識を深め、喜びに変わる瞬間がいいですね」と語る、いくたびの受賞歴を誇る技能者がここにいる。
生家は農家だった。「子供の頃は物がない時代でした。親も必死に生きていましたから、遊ぶにしても道具はみんな自分で作るしかなかったですね。竹を取ってきては竹トンボや水鉄砲を作ったり、竹馬でも遊びましたね。どちらかというと、必要に迫られて遊び道具を工夫して作っていました。でも、当時はものづくりをやろうとは全く考えていなかったですね」。
人生の進路を決める中学三年生の時である。「父は当初、大工さんか、左官屋さんになれといっていました。現に、弟は指し物の建具屋になりました」。ただ、自身ではあまり深く将来のことを考えてはいなかった。「学校の先生は地元の大企業なら、将来は安心だろうといっていましたね。私も給料が頂けて、工業高校程度の学科勉強もできます。その上に技能が身につく実習も受けることもできるというので、愛知工業(現アイシン精機)の技能者養成所にお世話になったという次第です」。
その第1歩の選択でその後、高度化する自動車のトランスミッション部品の加工に要求される切削条件に対応する万能治具を考案したり、切削で精度を高めるためにミクロンの世界に分け入っていくなど、金属工作機械加工分野で次々と新機軸を打ち立てる技能者としての杉浦さんが出現するのだから、人生は面白い。
■問題点を見つけることが私の役割
「やはり、技能を磨く原点になったのは養成所の3年間です」。養成所では技能の基礎を教え込まれ、例えばバイト(刃具)は丸棒から火づくりして、焼き入れし、刃を研いで作ったことも。現在も、道具を大切にするのはその経験からだ。
その上で、意欲的な取り組みに弾みをつけたのは、「トヨタ生産方式」の考え方、見方を教育されたことが大きい。その印象は鮮やかに残る。職場の「班長」に就いた入社10年目の72年頃のことだ。「ある日、トヨタの大野(トヨタ自動車元副社長の大野耐一氏)さんから教育を受けた会社の重役が私たちの職場にお見えになり、現場を一目見ただけであれこれ無駄な動きを指摘されたのです。その洞察力には驚きました」。
現在、製造業をはじめ、各種産業に普及する「トヨタ生産方式」は多種少量生産という市場制約から生まれた。当時、杉浦さんは班長になっていたとはいえ、職場の中で自分の役割を掴みかねていた。「確かに、部下に指示はしていたが、自分の中では生産ラインは計画通り生産できれば良いと思っていました。それがその重役の洞察力に触れたことで、全体の業務の流れ、現場の人の動きを見ることにより、問題点を見つけることが私の役割だとわかりましたね」。
それから6年後の78年、カセットをヒントに「切削加工用万能治具」(写真参照)の考案へと一気に技能レベルを駆け上がっていく。同治具は現在も、現役で活躍中だ。当時、製品ごとの専用治具は切削加工時に製品の寸法、形状に合わせて月間180件を超える量を製作していた。ただ、生産終了後には廃棄処分され、原材料を含め、コスト、リードタイム面など、問題が山積していた。そこで、原価低減を中心に据えた「トヨタ生産方式」の考えをもとに、専用治具製作の不要化に設定した改善に取り組むことになった。
■常にテーマを持って物事を見る
最初に得られた発想は、位置決めピンの自在化だった。まず、第1段階でプレートは形状、大きさを問わない締め付けネジの蜂の巣化を施し、位置決めピンの自在化を試みた。結果は専用治具製作の不要化を実現した半面、重切削時に位置決めピンの固定強度に不安が出た。このため、第2段階は位置決めピンの固定強度を洗い出し、補強策を新たに講じることにした。
そのヒントはひょんなところから浮かんだ。「ちょうど、同業他社の工場を見学する機会があり、それに参加したところ、その工場では構成部品を積み上げた治具を使っていました。で、ひらめいたのです。この積み上げ方式を位置決めピンの固定強度の補強に利用できないかと」。
第2段階はプレートにカセット位置決め穴を追加し、カセットをピンで固定することで重切削に対応する補強を施した結果、どんぴしゃり固定強度の不安が解消した。大きな成果を上げた。治具製作費が従来比70%低減を達成する一方、試作加工時の段取り工数が低減でき、試作リードタイムの短縮にも貢献した。杉浦さんは「あの時は、常にテーマを持って物事を見ることの大切さを体験できましたね」と振り返る。
■ミクロンの世界の精緻さに挑戦
1ミリの1000分の1というミクロンの世界。「モーターボートなどに使われている船外機を上げ降ろしさせるポンプの性能が、図面通りに(性能が)上がらなくて困ったことがありました」。85年頃だったという。杉浦さんがミクロンの世界に本格的に取り組むきっかけになった課題がこれだった。「得意先からは納品をせかされ、会社としては何としても性能を確保しなければならない状況にあったわけです」。2カ月余り眠れぬ日々が続いた。
船外機を定められたスピードと消費電力で作動させるには、ポンプ部品のギヤーとケースの切削加工に精度がより厳格に要求され、「極微の粗さでも性能が左右する」ミクロンの世界の精緻さを象徴していた。このため、高精度な加工方法には研削、ラッピング、キサゲなどの工法があるが、そのコストを考えて加工の量産化に切り替えようとするのだから、容易ではなかった。
しかも、設計部門でも性能が上がらない理由がわからなかったのだ。ただ、切削機械加工時にどうしてもつきまとう筋状の表面粗さと加工方向をどう克服するか、が最大のポイントだった。
杉浦さんは設計部門と協力体制を作り、地道に一つ一つ問題を潰す作業を続け、量産化に向けた加工方法の道を探った。そんな苦心の末に、ギヤーとケースのミクロン単位のクリアランスを突き止め、加工の筋方向を見つけ出した結果、量産化を見事実現したのだ。
杉浦さんは「ミクロンは目に見えませんが、私たちの身近にあります。そのミクロンの世界があるからこそ、道具ができ、機械が形成され、車、カメラ、メガネなどの製品が生まれています」と、生活に身近なミクロンの世界の一端を紹介する。
杉浦さんは現在、アイシン精機人材育成センターで主任工師の立場から次世代のものづくりを担う後進の育成に情熱を注ぐ毎日だ。「学園生を直接、指導するとともに、指導員の育成にも取り組んでいます。もちろん、自分が培ってきた技能の伝承は重点的に進めています。私は、ただ仕事を漫然とやるだけでは駄目と常にいっています。何のためにやるのか、目的をはっきりさせ、最良の手段を選ぶという技能を深めてもらいたいのです」。ものづくりに懸ける思いは貪欲だ。その上で、最後に「やはり、挑戦していく勇気です」と結んだ。
杉浦さんのものづくり人生は、高浜虚子の「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの」の句境と重なる。この句は1950年の暮れに詠んだ虚子の代表句の一つである。何事にも動じない力強さのある句だ。「最近は、仕事を終えて家に戻って一杯飲むのが楽しみです」。アルコールは相当いけそうだ。いまも、杉浦さんは公私を問わず"元気印"の現代の名工の一人だ。
