【第5回】 桂功氏(高精度金型製作工 デンソー)
「"技能五輪"をバネに拍車がかかった金型製作」
第5回はデンソー生産技術開発部型企画室次席部員の桂功(かつら・いさお)さんです。桂さんは1950年(昭和25年)2月生まれの59歳で、デンソーの高精度金型製作の第一人者です。65年(同40年)に日本電装(現デンソー)技能者養成所に入り、工機部型一課仕上げ係長、型課課長、2005年(平成17年)生産技術開発部型工場工場長などを経て、09年(同21年)1月から現職。1969年(昭和44年)の技能五輪全国大会に出場後、後進の技能や精神面の指導にも尽力され、全国大会出場者は124人に上り、うち4人が世界一の栄冠に輝いています。
これらの功績が高く評価され、05年(同17年)には「高度熟練技能者」に認定されるとともに、同年の「現代の名工」にも選ばれています。
「少し頑固なくらいの性格の方がいいかも知れませんね」。桂功さんがふと、漏らした一言である。ある面では、ものづくり適性論ともいえる。40年近くに及ぶ金型製作を通じて磨き上げた人間洞察力か。「結構、ものづくりには体力や根気も必要ですから」。技能磨きにこだわりを持ち続ける桂さん。自らも出場したことのある技能五輪もその一つだ。ついには、国際大会に職種競技責任者として関わり、一競技の競技課題から競技場の設営運営まで全てを取り仕切った。ものづくりにせよ、イベントの実施せよ、スムーズに運ぶためにはきちんと段取りを考え、手順を踏んで積み上げていく、その能力の高さが遺憾なく発揮された瞬間だったろう。
■部門を超えた現場力の強さ
桂さんが、手がけた金型は2000個以上に上る。わけても、2001年(平成13年)のスタータの小型化をはじめ、その後も現在に至るまでインジェクタ(燃料噴射装置)の燃焼効率の向上、あるいはモノリス(ガソリン排気ガス浄化装置)の性能向上を、自身の1ミクロン精度の金型製作と、独自の着想力とを結集し、実現した。いずれも、世界に誇る自信作で、桂さんが高精度金型製作の"第一人者"といわれるゆえんだ。
そこには桂さん自身の努力もさることながら、より良い製品づくりに向けて部門など垣根を超えて協力し合う社風も見逃せない。「常に、設計部門と生産部門とが協力して知恵を出し合ってものづくりをするという空気があります」。現場力の強さだ。改善や考案が活発に生まれるのも、そんな職場の空気からだ。
金型製作には時代の要請にビビットに対応するしなやかさが必要だといわれる。だから、品質や生産性の向上はもとより、コスト低減に繋がる改善の積み重ねなど、時代の流れを的確に読む分析力もキーワードの一つだ。車社会が本格化した1970年代。桂さんの技法開発や改善、考案も、それに歩調を合わせてピッチを上げた。
■ワイヤー放電加工機に着目、新技法の開発も
その第1弾が77年(昭和52年)の型製作期間の短縮を実現した「多種少量生産対応の型製作技法」だ。70年代は、ユーザーニーズの多様化や環境規制の強化などを背景に新製品開発が相次ぎ、金型需要も飛躍的に拡大した。浮上したのは、型製作期間の短縮だった。その頃のコンビネーションメータなどプレス部品用金型は、パンチ・ダイプレートをそれぞれ板材から削り出していくのが主流だったという。
桂さんが型製作期間短縮の実現に活用したのは、ワイヤー放電加工機。糸ノコで木を切るようにワイヤーと加工物である金属との間で放電させ、そのエネルギーで加工物を溶かして加工するというワイヤー放電加工機の機能に着目したもので、一枚の板材から2個の部品を共取りする技法を開発したのだ。この新技法は、型製作期間の大幅短縮と型費低減に繋がり、併せて安定した高品質の確保も可能になることから「多種少量生産型の画期的な製作技法だ」として、関係者らの間で関心が集まった。現在も、この技法は多くの生産現場で活用されているという。
■半導体対応の精密型製作技能を確立

80年代は重厚長大から軽薄短小へと産業構造が大きく転換した時代だ。半導体が産業の"米"として定着、自動車産業にカーエレクトロニクス時代が到来した。半導体関連の高精度金型開発に熱い視線が注がれ、桂さんは精密型需要に応える目的から生産システム、生産量に適した金型開発に向けて調査、改良を繰り返した。その結果、最適な型材をはじめ、熱処理、型構造、部品形状、加工方法、組み立て調整要領などについて、2um精度の金型製作技術を確立させたのが、84年(昭和59年)12月に実現した「半導体など精密型の製作技能」だった。これを機に、桂さんは数多くの高精度部品開発を担当、半導体の製品化を次々に実現していった。
そんな桂さんがものづくりの世界に足を踏み入れたのは偶然といえば、偶然だった。中学生時代は愛知県東部の新城市で送っていた。「就職指導で学校に来られた刈谷の職業安定所の職員の方から日本電装という会社がありますが、どうですか」と勧められたのがきっかけだった。「初めて聞いた社名。何をする会社かも知らなかったですね、当時の日本電装は。ただ、勉強しながら働けるというのが魅力だったのかな」。
生来の人柄なのか、ものづくりには懸命に取り組んだ。「私は決して器用ではなかったと思っています。養成所時代は先生に励まされながら一つずつ技能を学んできました。だから、覚えたことは今でも不思議に忘れませんね」。3年間の技能者養成所時代を淡々と語る口調に、それが現われていた。基礎技能は、その養成所の厳しい基礎訓練の繰り返しをくぐり抜けて体得した。
■あこがれの技能五輪にも出場
卒業後に配属されたのは、金型製作部門だった。当時、金型製作は汎用機械で一時加工後、仕上げ工がヤスリなど手仕上げ工具を使って複雑な形状を高精度に作り上げていたという。桂さんも、その一員として貪欲に技能に磨きをかけた。そんな姿勢が会社の上司の目に止まった。1969年(昭和44年)の第7回技能五輪全国大会に向けて会社が準備を進めていたある日、その上司から「どうだ、受けてみないか」と桂さんに声がかかった。
デンソーは青少年技能者の技能水準向上などを目的に、技能五輪の出場選手を社内から選抜し、特別強化訓練対象者として教育していた。桂さんが勧められたのは、その社内選抜試験の受験だった。「技能五輪に出場するのが目標の一つだった」桂さんは二つ返事で受験、見事合格した。特別強化訓練選手に選ばれた桂さんは、目標としていたその技能五輪全国大会の「金属抜き型職種」競技の愛知県代表として出場を果たした。だが、その時はそこまでだった。
■レベルの高さにはねかえされて
「全く歯が立たなかったですね」。悔しさよりも、脱帽といった面持ちだ。「予想していた以上に全国の技能レベルは高く、とくに電機産業の選手は数段上を行っていました。とにかく強かったですよ。だから、電機産業の選手が持っている工具などを見て、その後見習ったものです」。翌年の70年(同45年)に、桂さんは技能者養成所の技能訓練指導員に就き、後進の指導に当たるなど、今度は教える立場から技能五輪に関わった。そして、現在も社内に設置されている「技能五輪分科会」を通じて力を尽くしている。ちなみに、70年以降の教え子から技能五輪全国大会の「抜き型職種」競技に出場した選手は延べ124人に上り、うち延べ64人が上位入賞を果たした。
その中には11人の金メダリストが含まれている。また、技能五輪国際大会には6人が日本代表で出場。うち5人が入賞を果たし、その中の4人が世界一の金メダルに輝いたという。
そればかりか、2007年(平成19年)11月に静岡県で開かれた「第39回技能五輪国際大会」では、自身の名声をさらに高めた。桂さんは同大会の職種競技責任者として関わり、参加国間の調整を含め「モールド競技」の競技課題から競技会場の設営運営まで全てを取り仕切るなど、手腕を発揮した。その活躍ぶりは国内外の技能五輪関係者から「公平透明な競技運営だった」と高く評価され、ものづくり人生に新たな一ページを加えたことも記憶に新しい。
■技能は地道に磨く
現在、桂さんが勤務するデンソー阿久比製作所は1990年(同2年)、愛知県・知多半島のほぼ中央部に位置する工業団地の一角に設置された。晴れた日には伊勢湾の向こうに鈴鹿山系が望める高台にあり、正門に向かって右側下の下芳池北側には、幻の花「花かつみ」が大切に保護され、6月中旬から下旬にかけて鮮やかな紫の花を咲かせるという。
阿久比町教育委員会が近くに立てた掲示板によると「昭和になって草木俳人竹内丁子が、どこかに「花かつみ」があるのではと探し歩き、ついに自生する一株を発見、地元の篤志家によって密かに保護された。87年(昭和62年)には花かつみ保存会が組織され、会員の自宅に移植し、株分けするなど努力を続け1株ずつ増やした」とある。「技能も、地道に伸ばしていくことが大切ですね」。桂さんが、にこっと笑った。「さざ波や立春の譜をひろげたり」(渡辺水巴)。桂さんの穏やかな表情が浮かんでいた。
