【第6回】 佐藤賢修氏(機械器具組立工 デンソー)
「腕の技にプラスして、幅広い知識や経験が必要な"知的技能"も磨く」
第6回は、デンソー生産技術部PALAP事業プロジェクト室次席部員の佐藤賢修(さとう・けんしゅう)さんです。佐藤さんは1950年(昭和25年)12月生まれの58歳で、自動車部品の量産を支える専用機組立・調整の第一人者です。69年(同44年)に日本電装(現デンソー)に入社、1年間の技能者養成所の訓練を経て、工機部工機1課仕上げ3係、98年(平成10年)同組立3課課長、2001年(同13年)同1工場工場長、06年(同18年)生産推進センターモノづくりDNA推進室次席部員などを歴任し、07年5月から現職。この間、1977年(昭和52年)の1級技能検定に合格したのをはじめ、2000年(平成12年)には愛知県優秀技能者表彰を受賞。また、06年(同18年)の秋には同年度の「現代の名工」に選ばれ、08年度(同20年度)秋の褒章では「黄綬褒章」も受章されています。
「知的技能」――。聞き覚えがあるようでいて、さほど一般化されていないという"四文字"が佐藤賢修さんから飛び出したのは、ものづくり論が佳境に差し掛かった時だった。この20年余、生産現場のロボット化は飛躍的に進み、キーワードはその制御だという。「もちろん、手先の器用さや機械操作の技を磨くことは大前提です。でも、最近はそれに加えて幅広い知識や経験などを含めた知的技能も磨かなければ対応できません」。持論の"知的技能論"を展開。凜(りん)とした口調に自信が溢れる。ものづくり人生40年目の春、佐藤さんは,幅広い経験や知識などを駆使してロボット制御の技に磨きをかける毎日だ。
■配属先は粒揃いの技能者集団
高校時代の同期生と「ものづくりを志して」故郷・山形県米沢市を巣立ったのは、1969年(昭和44年)の春。向った先は、東京を素通りして愛知県刈谷市の日本電装(現デンソー)に。「不安もありましたよ。愛知県は馴染みの薄いところでしたから。ただ、高校時代の同期生が一緒だったので心強かったですけど」。ものづくり人生は、不安と心強さとが同居した船出だった。
入社1年目は、技能養成所でものづくりのイロハを学んだ。「寮暮らしでしたが、どこか学生時代の合宿生活のような雰囲気でしたね」。卒業後、配属されたのは、その後の人生を決定する専用機組立・調整業務を担当する職場だった。「仕事を覚えて何年か経ってくると、周囲の先輩から技能検定など資格試験の受験がそろそろだよと声がかかります。もちろん、合格して当たり前だという空気でしたね」。ある面では厳しい職場だが、粒揃いの技能者集団だった。
■探究心に磨きをかける
以来、佐藤さんは一貫して専用機組立・調整業務に携わった。これまでに手がけた専用機は200余台に上る。例えば、長さ25mm、幅寸法4mm、厚み0・2mmのバイメタル材に0・8mmの線材を位置精度プラスマイナス0・1mmの溶接を要求された「メータバイメタル溶接機」、高速化と品質向上を同時に達成した「ラジエータコア組立機」、ロボットによる全自動組み付けを実現した「エアコン組立合理化ライン」など、量産体制を設備から軌道に乗せる新機軸を次々とものにした。
とりわけ、専用機組立・調整のエキスパートの道を歩み始めた入社4年目の1973年(昭和48年)、電装部品の生産量が飛躍的に拡大した時期と重なり、佐藤さんはサイクルタイム2秒から1秒に短縮することが求められた「高速プラグTR1号機」を担当した。この設備は各種の問題を抱えていて、とくにサイクルタイム短縮にはカム駆動の振動問題の解決が急務だった。それは品質向上には欠かせない条件だったからだ。「何とかしたい」。持ち前の探究心に"火"が点いた。
■時には手作業の技も
そんな中、浮かび上がった解決策は意外にも、ケガキとヤスリかけの手作業だった。「カム駆動の振動問題を解決するには、カム曲線の微妙な調整が必要だったのです。その調整にはケガキやヤスリかけの手作業の技が最適だったわけです」。このため、佐藤さんは自ら何度もケガキ、ヤスリかけを繰り返しながらカム曲線を微妙に調整。サイクルタイムの短縮と品質向上を同時に達成する専用機を見事、完成させたのだ。
職場ではまた、基本的な金属加工の技能ばかりでなく、より幅広い技能や知識が要求された。機械工学、電気工学はもちろんのこと、時代の要請でもある組立工程のロボット化、電子化の進展などに伴い、専門分野以外の知識も求められたという。「若い頃から本屋に行って専門書を買い求めて知識を吸収してきましたね。時には、その知識を職場で実際に試して確認したこともあります」。地道な努力を積み重ねてきた頑張り屋だ。
■現場でロボット活用技術を学ぶ
それから3年後の76年(同51年)、デンソーで初めてのサイクルタイム1秒の多品質・大量生産ライン「メーターゲージ組立ライン」を担当した。このラインは1日に20回の自動段取り変えを行い、80種ものの製品を生産する本格的な自動化生産システムの1号ラインだった。しかし、ライン上で各種の問題が相次いだ。その都度、高速組立機から溶接機までの幅広い経験や蓄積してきた専門内・外の知識、設備調整技能などを駆使し、改良に次ぐ改良を重ねた。「その時は、設計者の意図は何かと考えて、ライン全体を見渡して解決策を模索しました」。その上で、独自のアイデアを加え、理想的な設備へと作り上げ、同社の専用機組立・調整業務の"第一人者"としての地歩を固めた。
日本は世界でも有数の「ロボット大国」である。80年代半ばには、電子制御のロボットが導入され、自動車部品製造分野でも"ロボット時代"が幕を開けた。「当初からロボットには関心があり、その可能性に着目していた」ことから、ロボット制御の調整技術を現場で学んでいく。そんな地道な努力が、93年(平成5年)の「ロボットによる組み付け作業の設定方法」の考案へと結実した。
80年代半ばまでのロボット制御は、技能者のカンやコツに頼って位置合わせを行ない、その制御精度を確認していたという。しかし、それでは設備調整に時間がかかり、信頼性も低かった。このため、佐藤さんは座標の考え方を取り入れた制御方法を新たに考案、誰もが最適な位置を設定できるよう制御技術の標準化を図った。それが「ロボットによる組み付け作業の設定方法」の考案だ。その結果、ロボット制御工数時間は30%も低減され、同時に標準化も完成させたこともあり、ロボットの制御技能が飛躍的に向上する成果も上げた。現在、佐藤さんの職場では70%がロボット化されているという。
■仕事の楽しさを覚えるのに10年
もっとも、佐藤さんは「仕事が楽しくなるまでには入社から10年くらいはかかりました」という。「ある時、職場の先輩から面白い仕事があるからやらないかと誘われた」のが、ものづくり人生が開花するきっかけだった。それが、チューブとチューブの間を等間隔に強制的に広げる1979年(昭和54年)の「SRラジェータコア組立機チューブ広げ」の考案だった。「与えられたチャンスは常に、大事にしたいと考えています」。そこには持ち前の前向きさと、各種の技能検定試験に合格し、実力を高めてきたことが後押ししていた。そして、何よりもお互いに技能を磨き合う技能集団の「職場の環境かな」ともいう。これらの要素が相乗効果となって、ものづくり人生が大きく飛躍していった。
目下、力を注いでいるのは、技能の伝承を含めた後進の育成だ。「後輩には目標に向かってチャレンジしてもらいたいですね。そのためには一つの得意分野を持つことが必要です。その上で、さらに幅広い知識を学び、より良い製品を作るためにはどうすべきかを全体を見渡して考えていく技能者に成長してもらいたいですね」。
■黄綬褒章を受章して初めて実家に連絡
思いは、海外にも及ぶ。90年(平成2年)に同社の北米テネシー工場の設備立ち上げに参画した際、現地技能者の育成にも関わり、こと技能の伝承には国境を越えて内外無差別に取り組む熱心さだ。そればかりか、2004年(同16年)には技能五輪大会への出場選手を選抜する同社社内の競技大会の競技委員長を務め、選手の競技指導やメンタル面のサポートにも貢献するなど、熟練技能者の技能向上にも大きな役割を担った。だからこそ、いまも後進の育成には力が入る。
そんな功績が認められ、佐藤さんはこれまでに数多くの栄誉に浴している。中でも、昨年秋に受章した黄綬褒章は格別だったようだ。「あの時ばかりは、初めて故郷の実家に受章を連絡しました」。顔をぽっと赤く染めた。何か、去来するものがあったのか。「趣味はこれといったものはありません。強いて上げれば、スキーとドライブくらいです」。まさに、ものづくり一筋の人生だ。「さまざまのこと思い出す桜かな」(松尾芭蕉)。終わりのない技能磨きの旅が続いている。
